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■コラム一覧

新しく住宅を建てたいとお考えの方に、ちょっといい話

  ◎ 出会いを大切に −

いいモノは、じっくりと時間をかけ、思考を深める中で醸成されていくものではないでしょうか。
どうぞ いい出会いを大切に。

   ◇ はじめに

住宅を創ることは、一生に一度あるかないかの高価な買い物だと云えるでしょう。

あなたのその後の全てを委ねると云っても過言ではないのですから、新車を購入する以上にもっと住まいづくりを真剣に考えて頂きたいと思うのですが、いかがでしょうか。

もっと設計事務所を知ってほしい。悔いを残さないよう、食わず嫌いにならないで、身近かにお考え頂いて、大いに役立てて下さい。
きっと力になれると思います。

少なくともアイ設計事務所は、そんな風にクライアント(お客様)のことを考えながら、設計を進めております。
ここに、理解を深めて頂くために、あなたのための“ ちょっといい話 ”を掲載することに致しました。
幾らかでもお役に立てれば、幸いです。

  ◇ 思い立った時がチャンス −

金利の低い今、建て替えや新築のための千載一遇のチャンスとも云えます。

  ◇ 住まい方は その人の生き方である −

これは、先年亡くなられた建築家・宮脇 檀(まゆみ)さんの言葉ですが、余韻の残る、味わい深い言葉ですね。
住み手の方が、そんな住まいへのお考えをもっておられると、設計も大いに心を込めてお手伝いできるのではないでしょうか?

  ◇ 住まいづくりは 先ず現地調査から −

建築主の要望を聞きながら、先ずは現地を調査することから、スタートします。( が、もう一つ前の段階の土地選びから設計者にご相談頂くと、もっとメリットは大きいと思います。 )
次いでイメージを膨らませながら、基本構想を練っていくことになります。一方で違法建築とならないよう、建築関連の法規のチェックも加えて行きます。こうして出来たイメージを図面にまとめたのが基本設計と呼ばれるもので、出会いからこの時点までの時間が、建築主と設計者との話し合いの最も大切な時かもしれません。そして信頼関係が培われるのもこの期間なのです。
この現地調査では、敷地のもっている条件−地盤の強さや高低差、風向きや冬場の日照、敷地周辺の状況、排水先や電気、ガス、水道などの引き込み具合、又 将来への予測といったことなどが基本的な事柄と云えましょう。

こうした調査は、あくまで基本的なハードルであり、やはり住み手にとっての住み心地の良さを中心に据えながら、イメージを高め、テーマ性をもって設計を進めていくことこそが肝要ではないでしょうか。そのためにも、お互い納得のいくまで何回も何回も、案を練り上げていくといった地道な積み重ねが大切です。
建築計画と同時に、周囲の緑化計画なども計画に含めてお考え頂くと、きっと潤いのある、手作りの住まいが創り出せるのではないでしょうか。
緑の空間演出によって、随分と風景も住み心地も違ってくるものです。
又、工事関係の予算を組み込んで考えておくことも、この時点での大事な要素と云えます。

次に、外観のデザインや構造、内装や外装に使う材料、或いは照明器具や台所設備(システムキッチンなど)、又、トイレや浴室廻りの衛生機器など、見本やカタログなどでよく確認されておくのもいいでしょう。

それから、特に、高齢者や身障者の方がおられる場合には、有効寸法 ( トイレや廊下出入口の幅、脱衣室の広さなど ) や滑りにくい床材、手摺りなどに留意して、安心と安全、使い易さや機能性など、気配りしながら対応していきたいものです。( 今、対象となる方がおられなくても、いつか齢を重ねていくのですから、検討を加えておくことは決して無駄なことではないはずです。)

  ◇ おわりに −

如何ですか、設計事務所に設計を依頼すると、これらの作業を踏まえながら更に実施設計へと向かい、その図面に基づいて施工者を決め、 あなたの望む住宅が出来上がっていくのです。 ( 住宅に限ったことではありませんが、ここでは住宅に限って述べておきます。 )
どうぞ、あなたのフィーリングに合った、相性のいい設計者を見つけ、満足のいく住まいをお建てになって下さい。

次回以降では、ちょっと堅いお話になりますが大事なことですので、実施設計や工事監理、設計監理報酬額など設計事務所の業務内容について、もう少し述べてみたいと思います。
そうそう、この五年余り、静岡地方裁判所の調停委員を務めさせて頂いてきた体験から、建築主の皆さんに少しでも参考になるような、留意しておいて頂きたい点なども触れてみたいと考えております。

当事務所は、身近かな町医者のように、“設計界の赤ひげ”として、皆さんの良き相談相手でありたいと願っております。

高齢者の方の介護のための改修・改造工事や、大地震に備えての住まいの耐震診断・耐震補強などについてのご相談も、お受けします。
或いは、ご主人の書斎を設けたいとか、奥さまの家事室を充実させたいといった改造工事なども、どうぞお気軽にお問い合わせ下さい。

ご質問やご意見をお待ちしています。

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  ◇ 基本設計と実施設計の違いについて −

前回のお話は、ご覧頂けましたでしょうか。
引き続き、基本設計と実施設計の違いといったことから、お話を進めてみたいと思います。( 少し遅れてしまって、申し訳ありません。 )
ちょっと堅い表現になるかもしれませんが、ご容赦下さい。

前述しました基本設計で作成される図面がどちらかと云えば、建築主と設計者との打合せに使われることが多いのに比べ、実施設計図面は、施工業者が見積りするのに必要なものであり、又、施工現場で下請け業者や各職人さんが施工できるよう、図面の縮尺もより精度を上げて描かれており、寸法、仕上、仕様、体裁、納まりなどが、盛り込まれているのが通例です。又、そこまで明記された図面でなければ実施設計図面とは呼べないでしょう。つまり、建物の質を決めるのは、この実施設計図面と云えます。

でありますので、基本設計図面というのは、配置図・平面図・立面図・断面図・矩計(かなばかり)図のスケッチといった基本的なものであり、大まかな仕上、仕様も建築主に説明、理解を求めておく必要があるといったことから、この中に入れておいていいかもしれません。
建築主の方は、この基本設計の段階で、よりいいものにするための創意工夫を設計者から引き出すよう大いに注文をつけ、よし、これ以上の細かいことはもう専門家に任せよう、というところまで話し合いをすれば、納得いく内容になるのではないでしょうか。又、それに応えられるのが設計者というものです。
餅つきに例えれば、杵を突く前の、このこねる段階の細やかさが餅の風味、味の良し悪しに大きく左右するのと同じだと云えます。
次の実施設計の段階に入ってしまうと、なかなか大きな変更は困難となります。このこともよく注意しておいてほしい点です。
そして、この基本設計を基に、意匠・構造・電気・機械等の各々の分野毎に詳細図を作成した図面が実施設計図面ということになります。こうした実施設計図面がしっかり描かれ、なおかつしっかりとした工事監理がされて、初めて施工も信頼できる出来映えとなると云えます。

さて、少し視点を変えたお話を致します。
建築士事務所のあり方について、平成9年に建築士法の改正があり、その方向性が謳われております。ここでそのあらましを述べておくのも、建築主の皆さんに参考になろうかと思いますので、ちょっと記しておくことにします。
それは、建築士法第18条3項で、こう述べております。

    「 建築士は、設計を行う場合においては、設計の委託者に対し、設計の
     内容に関して適切な説明を行うように努めなければならない。」

当り前といえばそうなのですが、逆に言えば、建築主はその依頼した設計の内容について、設計者から説明を聞く権利があるということで、設計者の説明義務が明記されました。
裁判所の調停などを通じて感じることは、こうした説明不足から紛争、トラブルになっている事件があることも事実です。

設計者が設計料を明確に提示せず、曖昧なままであったために後日請求したとき、建築主がそんな請求金額は考えてもいなかったからと支払いを拒否したり、或いは基本設計時点で充分な説明がなされないまま実施設計に入り、完了はしたもののその結果に対し、そんな内容は依頼していなかった、仕上も仕様も聞いていなかったとか、又、予算を明示しておいたのに、坪数も金額もオーバーしてしまったとか、こうした事前の説明不足とか調整不足といった、基本的な問題でのトラブルによる支払い請求事件も意外と多いのです。
設計者ももう少し相手の立場に立って、説明・理解を求めておけば、こんなことにならなかったのに、といったことを感じることもあり、今回の法改正で、設計者に対しその説明義務を明記したことは、建築主の立場にある方々にとって、依頼した仕事の内容を分かり易いものにしたことになるわけで、いいことではないでしょうか。
建築士に対し、その設計内容について納得できるまで大いに説明を求めてほしいと思います。

  ◇ 施工者の選定と工事請負契約について −

さて、これらの実施設計図面に基づき、施工者が工事費を算出するわけですが、( 勿論、設計者も見積書を作成して施工者の見積りをチェックもするのですが )施工者の決め方も入札とか特命、随意契約、見積合せなど色々ありますが、設計者は建築主に対して、施工者の選定についても助言できる立場にあり、施工者が提出した見積書に対しても、チェックを行い図面との整合性の確認を行います。
そして、適正な価格であり、設計意図をよく理解できる能力のある施工者であればこれを決定し、工事請負契約を結ぶことになります。

この契約書には、請負金額は勿論ですが、工事場所・工事期間・支払条件・契約年月日などを明記することになっております。これらを白紙で施工者に一任することなく、きちんと確認をした上で書き込まれることをお勧めします。後々のトラブルを避けるためにも、不利な状況を招かないためにも必要なこととご理解下さい。又、本工事に含むもの、含まないもの、いわゆる工事区分を明確にしておくことも大切で、分からないことは納得するまで確認して下さい。 契約の前にはそうした姿勢が大切です。つい面倒だからと相手(施工者)に任せてしまう方がおられますが、これは間違いの基となります。
しっかり内容を確認してから、押印するように致しましょう。その程度のお時間は、たっぷりあるはずですし、一生に一度か二度あるかないかの高価な買いもののはずです。要は人任せにせず、面倒がらずに内容の確認を致しましょう。( 何回も確認をと申し上げるのは、こうしたことが疎かで後々トラブルになっている事件が、思いの外多いからです。)

そして、もう一つ大事なことは、工事請負契約はたった一枚の請負契約書で済まさないで、これに付随して請負契約約款・内訳明細書・仕様書・設計図面といった、いわゆる設計図書と云われるものを一式綴じ込んで双方記名捺印し、一部ずつ双方で保管しておくということが万一トラブルが生じた際の論拠ともなり、望ましい契約内容と云えます。又、工事中の追加・変更などが生じた際の根拠ともなります。
こうした際、建築主が設計事務所と設計監理契約を結んでいる場合には、こうしたアドバイスも充分出来るのですが、建築主の方と大工さんや工務店さんなどとの関係だけで、設計事務所の介在がない場合はなかなかそううはいかないのが実状だろうと思います。
ですから、建築主の立場に立って、施工者と打合せを行い、その意を介して専門家の立場で交渉し、理解を求めるのが設計監理者の立場であるわけですから、大いに活用してほしいものです。

これは一面、結婚の場合と同じだと云ってしまえば、語弊がありましょうか。
結婚前はしっかり相手のことを見て決めるべきと云う点では、同様ではないでしょうか。
建築主の皆さん方で契約の重要性を余り認識されずに、その人間関係や知人の紹介だから大丈夫だろうと、相手にお任せの任せっきり。
ちょっと人が好すぎませんか?仮りにも数千万円のお住まいなんですよ。多分、大丈夫だろうといったことから、安易にお任せとされている方が余りにも多いように見受けられます。
自己責任で防げるものは、その気になってしっかりガードしてほしいものです。

  ◇ 工事監理について −

最近法的にも整備されてきたためか、10年保証とか品質保証、性能保証が声高に叫ばれ、工事監理の重要性も大きく問われるようになってきました。最近の裁判所の調停などでも、設計・工事監理者の責任が厳しく問われる事件が増えてきているのも事実であります。これは当然なことでもある反面、最近の厳しい世相を反映しているとも云えましょう。

建築士法では、建築士が工事監理を行う場合、工事と設計図書との照合、確認に限って規定しております。つまり、工事が設計図書のとおりに実施されていないときは、直ちに、工事施工者に注意を与え、施工者がこれに従わないときは、その旨を建築主に報告しなければならないと、その報告義務を定めています。さらに同法ではその他の業務として、建築工事契約に関する事務、建築工事の指導監督も含むとしております。
これは、工事監理者に対し、専門家としての適切な判断と、当然払うべき注意義務が課せられていると考えられますし、建築物に瑕疵を生じたり、建築主に余分な負担を負わせた場合には、業務契約に基づく損害賠償責任が問われることになるでしょうし、工事監理者の義務不履行に起因して、第三者に損害が生じた場合には、民法の不法行為責任が問われるということにもなりましょう。
ですから、工事監理契約を結ぶ場合、設計・工事監理者は、業務内容を明確にしておくことが重要ですし、建築主も設計する建築士にそのことをよく確認された方がいいでしょう。

  ◇ 設計・工事監理契約について −

ここで、話が前後しますが、設計・工事監理の契約についてお話してみたいと思います。
平成9年の建築士法の改正で、その第24条の5では、下記のことがうたわれております。

   「 建築士事務所の開設者は、建築主から設計又は工事監理の委託を受
    けたときは、建設省(現国土交通省)令で定めるところにより、次に掲げ
    る事項を記載した書面を当該建築主に交付しなければならない。」
      一 設計又は工事監理の種類及びその内容
      二 設計又は工事監理の実施の期間及び方法
      三 報酬の額及び支払いの時期
      四 契約の解除に関する事項
      五 前各号に掲げるもののほか、建設省令で定める事項

端的に申し上げれば、設計・工事監理契約については、上記の内容を明記した書類を取り交わし、契約の履行に伴って生じがちな紛争の種は極力排除しておこう、といった紛争防止の規定であると云えます。

さて、皆さんは、設計や設計監理の報酬額は一体幾ら位とお考えでしょうか。
ちなみにここに、設計事務所の設計・工事監理の報酬を算出するための資料を提示しておきますので、何かの折りに参考になさって下さい。ここでの具体的な数値は、アイ設計事務所で取り交わさせて頂いているものですので、設計事務所によっては所員数の多少などにより、経費の見方などに大きな違いがあろうかと思いますので、その都度確認して下さい。
唯、留意して頂きたいのは、その設計監理料に見合うだけの業務はどういう内容か、どれだけの業務をやってくれるのか、契約前に設計者にきちっと確認されることをお勧めします。業務内容をリストにして提出してもらい、保管しておくのも確認ができていいと思います。
又、あってはならないことですが、もし後日トラブルなど生じた際の証拠ともなります。

くどいようですが、こうしたことをよく把握された上で押印、契約をされた方がいいでしょう。でないと、報酬額に見合う仕事だったかどうか分からずに、後で随分と高いものについてしまったなどと感じることにもなり、こうしたことをきちんと説明できないような建築設計事務所では設計それ自体もあやふやであるかもしれませんし、契約前によく説明を聞かれ納得した上で設計業務を委任し、契約することをお勧めします。

なお、これは、国土交通省( 旧建設省 )の告示に沿って略算方法により算出していますが、それに見合う業務内容もうたわれております。 ( ここでは省略させて頂きますが、物件ごとにその都度、建築士事務所に確認されることをお勧めします。 )

先ず、設計・工事監理の報酬は、下記のような内容で成り立っています。

  報酬 = 直接人件費 + 経費 + 技術料 + 特別経費 + 消費税相当額

         直接人件費 = 業務人日数 × 1日当たりの人件費
              ※ 業務人日数は、( 別表−1 及び 別表−A )に示す
                1日当たりの人件費は、( 別表−2 )に示す

         経   費 = 印刷製本費、複写費、交通費、人件費、研修費、
                 通信費、消耗品費等で、
                = 直接人件費 × ( 20 〜 50 ) %
              ※( 20〜50 )の数値の違いは、建築物の用途等、業務の
               難易度によって異なる

          技 術 料 = 設計業務において発揮される技術力、創造力等の対価
                  として支払われる費用で、業務の難易度によって
                  直接人件費の( 5〜25 )%相当額をあてる

         特別経費 = 出張旅費、その他の建築主の特別な依頼に基づく
                  必要な費用の合計

それからちょっと付記しておきますと、
例えば、設計と監理の業務量の合計を100%としますと、その内、設計は約60〜70%位の割合、残りの約30〜40%が監理に関わる作業量とみることが出来ます。又、設計の内訳をみますと、基本設計と実施設計に分けられることは前述した通りですが、この割合も基本設計の業務量が概ね、20〜30%位、実施設計が残りの70〜80%程度と考えて大きな間違いはないと思います。( 特殊な場合は別ですが。 )


私どもアイ設計事務所では、上記の略算方法により報酬額を算出させて頂いておりますが、これを工事金額の何パーセントにあたるかを換算してみますと、概略次のようになります。

       ○ 専用住宅以外の一般建築では、
           設計料のみでは、  工事費の約4.0〜6.0%
           監理料のみでは、  工事費の約1.5〜2.5%
           設計・監理料として、工事費の約5.0〜8.0%

       ○ 専用住宅では、
           設計料のみでは、  工事費の約 8〜12%
           監理料のみでは、  工事費の約 3〜 5%
           設計・監理料として、工事費の約10〜16%

以上のようなことではありますが、設計・工事監理の契約をさせて頂く場合、建築主の予算や融資の枠といったこともありますし私どもは、一方的にこうした算出金額を強要するということは致しておりません。
その都度ご相談させて頂きながら、業務内容と報酬金額を決めさせて頂いております。
具体的には、やはりその建築物の用途、業務内容によって報酬も異なりますので、その都度、建築士事務所にご相談されるのがいいと思います。

幸い、これまで設計監理を通じての23年間、アイ設計事務所では、お陰様で施工現場で大きな問題が生じたとか、竣工後建築主の方に苦情を挟まれたといったこともほとんどありませんでしたので、有り難いことと感謝しております。
( 勿論、沢山の職人さんが参加して造り上げていくのが建築の施工ですから、小さな問題や解決すべき課題もその現場ごとに沢山ありますが、その都度ベストを尽くしながら、対応し解決してきました。 )

施工現場では、日一日と状況が変わっていきますし、−それが楽しみでもあるわけですが−次の工程との具合を確認しながら、今を見つめていかなければなりません。 今、目の前の下地の出来映えが完成時の出来映えに即影響することも多いのですから、なかなか工事監理も、設計とは違った見方、経験が必要ですし、人間関係と云った目に見えない関わりもあって、現場での信頼関係を構築しながら一つのものを創り上げていくわけですから、見た目以上になかなか大変なことではあります。
ですから、現場の関係者は設計監理者も含めて皆、施工の苦労が多ければ多いほど竣工した後、建築主の方に喜んで頂ける時が、至福の時だろうと思います。


以前にも述べさせて頂きましたが、あなたのフィーリングに合った、相性のいい設計者を見つけ、よりいいものにするための注文を沢山出し、ご自身の好みもしっかり伝えて、一生懸命あなたのために考え、応えてくれる設計者を選択した上で、満足のいくお住まいを建ててほしいものです。

では又、良いお話ができましたらメモさせて頂きますので、その日までごきげんよう。



 《 付記 》                                          平成13年7月18日 『 近頃の地震対策に想う 』

                                                      森藤 卓郎

東海沖地震は、いつ来てもおかしくないと云われて早20数年が経過しようとしております。しかし、75年周期とか120年周期とか云われている中で、それだけ空白時間帯が長いということは、それこそ明日起きても不思議ではない状況が続いているといっていいでしょうし、それだけに心構えと準備だけはしっかり備えておくべきだろうと思います。
そこで、そうした注意事項を皆さんにお伝えしておくのは決して無駄なことではないと考え、数年前に業界紙に掲載された拙著の原稿に加筆してここに記載することにしました。
幾らかでも参考にして頂ければ幸いです。

では、卑近なところからで恐縮ですが、私どもの応急危険度判定士の紹介からお話させていただきます。
現在では、全国に各県単位で、建築士の有資格者を対象に応急危険度判定士が網羅されております。この〈 応急危険度判定士 〉という言葉は、皆さんにはあまり馴染みがないかもしれませんが、この応急危険度判定士というのは、大地震の後の余震に備えて、被災建物の後の危険度を判定して二次災害を防ごうという目的で創設されたものです。静岡県では東海大地震に備えて全国に先駆け平成3年6月より施行してきた制度で、県内には現在およそ8千名余りの判定士がおり、毎年地区毎に県の総合防災訓練に参加・協力したり、技術講習会を実施して5年ごとの更新を行っております。

元々、この判定活動というのは、1985年に起こったM(マグニチュード)7.9のメキシコ地震をきっかけとして、1989年のM7.1のアメリカ西部のロマプリエータ地震の際に、技術者のボランティア集団が震後対策として、二次災害防止のためにこうした判定を行ったことから注目を浴び、我が国でも当時の岡田東大教授を中心に研究、論議が重ねられ、静岡、神奈川両県の自治体が中心となって制度化してきたものです。
1995年1月17日未明に起こったM7.2の阪神淡路大震災の直後における静岡、神奈川両県の判定士有志の活動は、被災建築物の余震による二次災害を防止するという目的では充分市民の期待に応える結果であったことは、マスコミでも大きく取り上げられましたので、ご記憶の方も多いかと思います。又、もう一つの側面として、こうした震災直後の混乱した状況の中、現場で多くの被災者の相談に乗ることで、不安、動揺を和らげ、人心を安定、沈静化させた役割も大きかったと伺っております。

さて、県単位の大規模な防災訓練− 自衛隊や警察、総合病院や消防、行政などの組織的な機動力や応援、危機管理についての大局的なリーダーシップ −は、国、県レベルに譲るとしても、被災直後の状況では、隣近所、町内会、自主防災会などの普段のつきあいの中で、身近な自主的防災訓練を通じて対処していくことは何より大切なことではないでしょうか。
これまでのどちらかと云えば「見る訓練」から、お互いに顔の見える「参加する訓練」に、又、地域的にも特色をもたせた訓練にシフトしていくべきではないか。さらに云えば、普段から住んでいる身近かな町内の危険個所などをチェックして見つけておくことや、一人住まいや寝たきりのお年寄りや身障者の方々を把握できる近さでの手作りの防災訓練があっていいのではないか。それこそが「自らの命は自ら守る」ことにつながり、「自分たちの地域は、みんなで守る」ことに直結することではないでしょうか。
阪神淡路大震災の貴重な教訓として、《 家族も地域も助け合い 》がもっと生かされていいのではないかと思うのです。
例えば、皆さんの自宅に近いところで目につくのは、ブロック塀や石塀などがあろうかと思います。これらの倒壊も懸念されますし、又通学・通勤の途中の急傾斜地やがけ地など、或いは海岸近くの平坦地では津波なども大いに懸念されるところです。こうしたいつ恐ろしい凶器に早変わりするかもしれない箇所では早期の避難が大切ですし、こうした箇所の改修には、普段から力を入れておくべきことではないでしょうか。でないと、愛しい家族の生命のみならず、消防車や救急車などの緊急車両が被災現場に近づけず、消火活動や人命救助にも支障をきたすことになるのではと危惧されるからです。
地域防災というのは、日頃私たちが地域をよく見つめて問題点を洗い出し、何が出来るか、何をしなければならないかを常に問い続けること、というようにも思えます。このことは県の指導の下、各市町村でも少しずつ洗い直されてきているようにも感じるのですが、未だしの感は拭えない感が致します。

過去のあらゆる災害がそうであったように、どんなに万全だと手を打ったつもりでも自然災害は、思わぬ時に、思わぬ処で、思いもかけぬ規模で起こっております。環太平洋地震帯にある地震国の日本では、いつ、どこで、どんな地震が起こってもおかしくない状況、といった厳しい認識が必要でしょうし、人の生命・財産を守り、地域を守る《 安全 》について、どんなに考えても考えすぎるということはないはずです。
東海地震は確実に近づいている、否、必ず起こる、それもここ数年以内に、といった覚悟でその備えに万全を期すべきでしょう。
皆さんは地震は予知できるから備えはその後ですればいい、といった安易さはありませんか。私は今の段階では、予想される地震の予知はかなり難しいだろうという、どちらかといえば悲観的な見方をしておる立場におるものですから、地震の予知は困難なものとして、被害を最小限に食い止めるためには私たちが普段からその手だてを立てて、備えておくべきだという感が強いのです。ですから、普段備えておくべきことは何か、起こった後の取るべ対応は何か、訓練も含めて身近なところでその対策を考えておくことが重要だろうと思うのです。
地震予知というのは、いつ、どこで、どのくらいの規模で起こるのかを、前もって知らしめることなのですから、例え地震の専門家といえども非常に難しいことだろうと思うのです。

ところで、一般的に木造住宅の耐震性能は、その老朽化に比例して低下していくのは止むを得ないことですから、適切な維持管理、保全といったことは不可欠です。時には設計者や施工者らの専門家に5〜10年毎位に安全性をチェックしてもらうのも安心ではないでしょうか。静岡県では、地震に強い木造住宅にするため我が家の耐震診断と補強方法などのついて補助金を出して本格的に取り組み始めました。又、鉄筋コンクリート造のビルや集合住宅などで、新耐震設計法が施行される1981年(昭和56年)以前に建てられた建物は、耐震診断や耐震補強設計、耐震補強工事を行って、耐震性を高めて頂きたいものです。又、1階がピロティなどで耐震壁が無いような、耐震性の劣る建物では同様に早急な耐震補強工事を実施してほしいものです。
ともかく、睡眠中でも自らの命を預けているのが我が家であるわけですし、大切な家族を守るべき住まいの耐震性を推進することは、普段やるべきこととして大事なことではないでしょうか。
これらの改修工事費などで補助金も考慮されているようですので、県(土木事務所)や各市町村(建築関係部署)にお問い合わせしてみて下さい。

県や各市町村では、“ 地震からあなたと家族を守る ”[ 命のパスポート ]といった、赤い帯状の小さな折り畳み用紙を各家庭に配布しておりますので、これをご覧下さい。いざというときの心構えや注意事項がとても分かり易く、端的に書かれておりますので、是非身近かなところに置いて頂いて、日頃から読んでおいてほしいのです。( なければ、県及び各市町村役場に行かれて手に入れておいて下さい。)
ここで、避難時にいるものなどピックアップしておきますので、参考にして下さい。

  ※ 防災用品チェックリスト

    ◇ 水・食料など
      ○ 水(1人につき、1日3リットル 最低3日分)
      ○ 食料(調理不要な乾パン、アルファ米など)
      ○ 缶詰、インスタント食品、粉ミルクなど 
      ○ マッチ、ライター、ロウソク、固形燃料、携帯用コンロ
      ○ ポリ容器、ビニール袋、リュックサックやナップサックなど

    ◇ 備品・衣類・生活用品など
      ○ 懐中電灯(電池)、携帯ラジオなど
      ○ 食器(紙製でも可)、缶切り、栓抜き、ナイフ
      ○ 救急セット(常備薬)
      ○ 洗面用具(歯ブラシ等)、タオル、ウエットティッシュ
      ○ マスク、軍手、スリッパ、靴下、靴
      ○ 雨具、防水シート
      ○ 毛布、寝袋、テント
      ○ ヘルメット、スコップ
      ○ ロープ、ガムテープ
      ○ バケツ、消火器など

    ◇ その他、大切なもの
      ○ メガネ、入れ歯、補聴器
      ○ 生理用品
      ○ 自転車、車
      ○ 印鑑、預貯金通帳
      ○ 権利書(土地、建物)
      ○ 保険証書
      ○ 運転免許証
      ○ 硬貨(特に拾円、百円などの硬貨)、現金など

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“ タモリの笑っていいとも ” に出演して

今回はちょっと特異な体験をさせて頂いたものですから、そのことを述べておきます。


いやあ、実はですね、先日、タモリの笑っていいともに出演しちゃったんですよ。えっ、誰がですって?困っちゃうなあ、この私が出ちゃったんですよ、その番組にね。
月曜から金曜までのお昼時に、フジテレビ系で毎日放映されているということは時折見ていましたから、知ってはいたんですがね、まさか自分がその画面に出ちゃう羽目になるなんてことは、これっぽちも考えたことなどなかったことでしたからねぇ。しかも、正午に始まってのすぐのコーナーでしょう、心の持ち方なんぞ、何処に持っていったらいいものか、もう風呂敷に包まれた状態でな〜んも考えられないんですわ。
気がついたら、いつのまにか終わっていた、といいましょうか、なんにも言わない内に終わってしまったなぁというのが、今、こうして振り返っての正直な感想なんです。
ともかく、前日16時までに新宿のホテルの方にお出で下さい、事前に簡単な説明をさせてもらいますので、とか云われていたものですから、もうおっとり刀で泳ぐように静岡から駆けつけましてですね、ちょっとしたその打合せに臨んだというわけなんです。
当日(10月17日)は又、簡単にリハーサルをやりますので朝10時までに受付にお出で下さい、と云われてましたのでね、新宿のテレビスタジオ・アルタという場に初めて臨んだんですよ。で、簡単なリハーサルを2回ほど、ディレクターを中心に10名程の番組関係者からいろいろと質問責めがありましてね、それを受けて本番でのタモリさんに繋げていくという感じなんですね。それでもってリハーサルも済み、控えのコーナーで一人待っていますと、番組30分前ぐらいだったでしょうか、タモリさんが出勤といいますか、登場されたんですね。そうしたら急にその場の雰囲気のテンションが高まって緊張していくのが、スタッフの声などでスクリーン越しに分かるんですよ。そんな中で、私一人その小さな部屋で、出番まで待っていましたのでね、緊張からでしょうかねぇ、急におしっこ出たくなっちゃいましてね、すみませ〜ん、トイレに行きたいんですが宜しいでしょうか〜?なんて担当の方にか細い声を掛けましてですね、一緒に行ってもらったりしたんですよ。ともかく、もうまな板の鯉の心境なんです。繰り返しになりますが、まあ、その番組のトップのコーナーに出演するなどとは考えもしなかったことでしたからねぇ。平常心でとは思っていたんですが、いきなり煌々としたライトに照らし出されたスタジオにポ〜ンと放り出されたようなもんでしょう、もう開き直るしかないんですね。しかも首からは自分の名前である、森藤 卓郎 もりとう たくろう (57才)と明記した(30cm×40cm)位の大きな名札をぶら下げての登場で、幼稚園児のような格好でしょう、自分でもやや情けないような気持ちと戦いながら、顔はにこやかにと、結構複雑な心境でしてねぇ。
又、周りを見ればブラウン管を通してしか見てないタレントばかりで、口から生まれてきたような方ばかりでしょ、私一人ぽつんと浮いてしまわないかという懸念もありましたね。大体、このコーナーは『ついている人のコーナー』らしいんですが、そこに出るような柄ではないと思っていたもんですからね。リハーサルの時にも、ディレクターにそのように伝えたんですよ、そうしたらその方がうまいこと仰有るんですね、このコーナーには常時40人もの候補者がいるんです、その中で今回あなたは選ばれたんですよ、又、職安の愛称募集で、4千2百にも及ぶ応募作品の中からあなたの《 ハローワーク 》という愛称は選ばれたんですから、これは断然ついているといえるんじゃあないですか、とか云われて、こちらの気持ちをうまくほぐしながらその気にさせていくんですね。 又、出だしでのこのコーナーで当日のその後の雰囲気が決まる面もあるんですから明るくいって下さい、とかね。まあ、そのコーナーでの出番が終わるまで何とか笑顔でいたのがせめてもの救いといえたんじゃあないでしょうか。( これは、私、帰宅してその晩のビデオを見ての感じなんですがね )もっとも穿った見方をすれば、おいおい、ひきつってたんじゃあないかい、と思われた方もおられたかもしれませんがね。
まあ、でも面白い体験をさせて頂きましたよ、ええ、本当に。そして、ああした番組(お昼の視聴率はトップなんだそうです)は、陰で支えているスタッフが沢山おられて成り立っているんだなということを肌で感じたのもよかったんじゃあないかなと思います。華やかな出演者の裏にはそれを支える、よきチームワークのスタッフがいてのことなんだなというのが、実感できましたからね。今夏、登山した富士山と同じで、その頂を支えるにはその裾野は広く大きく、バランスが大切だということでしょうか。
ともかく、今年はこれまでこれといったことのなかった私にとりましては、久しぶりに面白い時間を体験させて頂きました。沢山の方から、見たよ、といったお電話やら、お話を頂きましたので、ご覧頂いた方には、改めてお礼申し上げたいと思います。どうも有り難うございました。
そうそう結びにあたり、もう一つ自己ピーアールさせてください。
といいますのは、ちょっと堅いお話で恐縮ですが、裁判所の調停委員を務めさせて頂いて私、今年で6年目なんですが、丸5年無事務めさせて頂いたことと、これからも頑張れということからでしょうか、先日、静岡県調停協会連合会の総会で、会長表彰を仲間の方と一緒に受賞させて頂きました。
これからも、たった一度の人生 心をこめてひたむきに をモットーに業務に専念しつつ、己にできることを一生懸命頑張って参りたいと考えておりますので、どうぞ今後ともご支援、ご指導を宜しくお願い申し上げます。
これからいよいよ寒さも厳しくなります。どうぞご自愛ください。

                            平成13年11月吉日                                        (株)アイ設計事務所                                          森藤 卓郎 拝

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21世紀の2年目に想うこと

2002年初春 - 一陽来復
昨年は、国内外で身震いするような震撼とした事件が相次ぎ、大変な世紀の幕開けとなってしまった感が強かったのですが、さて今年は一体どんな年になるのでしょうか。
唯々、たおやかで、平和な1年であってほしいと希うばかりです。

ここ5,6年元日の朝は、近くの小さな神社に初詣に行き、地元の方々と御神酒を傾けながら初日の出に、〈 君が代 〉と〈 年の始めに 〉を声高らかに合唱するのが習わしとなっていますが、これが結構和気藹々と楽しくて、ここ数年すっかりはまりこんでおります。
経済不況もこれまで云われて久しい感が致しますが、午年の今年は又、変革の年として、いよいよ正念場の年。大きく変わるターニングポイントの年と位置づけた方がいいのかもしれません。それだけに決意と覚悟が改めて厳しく問われることになるのかもしれません。

そうは云いましても好きな仕事ができることに感謝しつつ、じっくりと味わいのある設計を心掛けたいものです。
そして、たった一度の人生、悔いなく精一杯生きたい、との想いも募ります。
午年の今年は全てがウマくいきますよう願っております。
本年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。

                平成14年1月吉日
                          (株)アイ設計事務所
                            所長 森藤 卓郎
                     ( 静岡地裁・簡裁/調停委員・司法委員 )

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近頃、ちょっといい話

いやぁ、実は先日、内閣総理大臣 小泉純一郎名でメールを頂いたのにはびっくりしましたねぇ。

いえね、昨年6月に小泉内閣メールマガジンが開設されて以来毎回、愛読させては頂いているんです。で、ついつい見ているだけでは飽き足らなくなっちゃいましてね、生意気にもこれまで6回ほどメールをお送りしたんですよ。それでもって、首相官邸のメール担当者からお礼のご返事を4回ほど頂いているんですね、今回は、なんと冒頭にありますように、総理大臣名で頂いたものですから、大いに驚いたというわけなんです。 その折々の問題について私なりの拙い考えをお送りしていたんですが、きちんと読まれていることに先ずもって嬉しくなっちゃいましてね、これからも時々元気づけにハッパを掛けさせて頂こうと、こう考えているんですよ。

これまでお話したことなどちょこっと申し上げますとですね、
  1.小泉内閣メールマガジンの発足によって、官邸をお茶の間にまで
    引き寄せ、国民に門戸を開いたことについて
  2.失業問題と中高年の自殺者の急増について
  3.田中外務大臣の更迭について
  4.司法の改正について
  5.小泉総理への激励 など
といったようなことになりましょうか。

こうしたことができるのも、I T時代ならではのことでありまして、本当にいい時代になりましたねぇ。

さて、本業の方ですが、つい先日、静岡市の山深い地に大川地区複合施設という市の施設が竣工いたしましてね、その設計をさせて頂いたものですから、お祝いの席に参加させて頂いたんです。小嶋静岡市長からは、いい設計、良い施工を頂いたとのお褒めの言葉を頂きましてね、反省する点も多々あるんですが、ちょっと嬉しかったものですから、タイトルの言葉になっちゃったというわけなんです。
これからも、本業第一に大いに頑張っていきたいと考えております。

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終戦の日を前に想うこと

今年は終戦の年から数えて57年目。 私は昭和19年4月8日生まれだから、終戦の日である昭和20年8月15日のことどもは知る由もない。
しかし、小学校に入学してからもしばらくは戦前の教育のしっぽを引きずりながら教えを受けていたように思えるのだが−特にそれを感じたり、思い出すことは、当時生徒に対して鞭を持ってたたいたり、鉄拳で殴ったりする教諭が少なからずいたことや天皇皇后両陛下の写真が校長室の前に飾られていて、その前を通り過ぎる際はお辞儀をすることなどが義務づけられていたこと、朝礼も国旗掲揚と共に宮城のある東に向かって、(目に見えない山の彼方に向かって)訳も分からず1年生から6年生まで、敬礼か、お辞儀をしていたように思う。恐らく戦前は、天皇陛下万歳、大東亜共栄圏、鬼畜米英、といった軍国主義一辺倒だったと思われるから、そうした鉄拳制裁などは教育の場でも当たり前であったろうし、それを許す社会的風潮も又当り前としてあったように感じる。
戦時下、そうした思想の下、国民総火の玉一丸となってとか、ほしがりません、勝つまではといった言葉の下で、厳しい軍事教練がなされ、家庭も、地域も、男も女も、国を挙げて総てが耐乏の、我慢に我慢を重ねての軍国主義一辺倒だったのではないだろうか。それが戦後、戦争に負け価値観が一変し、耳新しい民主主義の名の下、家長主義、男尊女卑のそれまでの封建制度が崩壊し、自信喪失の中、全てに平等といった掛け声の中で、家族のあり方、地域のあり方、国のあり方全てに、与えられた憲法の下で、戸惑いながらも大きな流れの中でそれに沿うように変わっていったのではないかと思えるのである。又当時の先生は、今に比べて威厳もあり(そう思わせるふしもあって)、親も地域の人も先生方に敬意をもって、一歩置いた形で大切に接していたように思う。

終戦当時の日本をアメリカ側から見れば、小国でありながらよくも大国アメリカを相手に戦ったものだ、それこそ激戦を共に戦った戦友として小さな島国日本のその敢闘精神を評価し、多くの戦死した尊い犠牲者を悼みつつ、我が国に対して戦後一貫して援助し続け、日米安保、協調路線を築いてきたのは、こうした激戦の歴史、三国同盟の内、最後まで戦った無謀とも云えるそうした姿勢があったればこそと考えてもおかしくないのではないか。
私は決して戦争を美化したり賛同する積もりなど毛頭ないが、今を生きる我々は、この大戦で亡くなられた多くの御霊の上に今の日本が、今の私たちの存在が今日あることを今一度胸の奥で噛み締めてみる必要があるのではないか、とは思うのだ。
アメリカは、太平洋を隔てたアジアの近隣諸国の中で、アジアの中の日本をよく理解、認識してきてくれたのは、ひたむきで、きまじめな日本人の良き気質を分かっていてくれたからではないのか、と思う。
雨振って地固まる、の格言は、( あの戦争を雨だと解釈するのはどうかとは思うが )今の日本とアメリカの関係こそ、当てはまるのではないか。

恥ずかしながら、土に親しみを感じるこの年になって、こうしたことを改めて感じるようになった。

人が生きているということは、親兄弟といった身近な肉親ばかりではなく、もっと広く社会に目を向けて、社会的に生かされている自分という認識をもっと強くもって然るべきではないか。社会性をもちつつ、自分の存在というものをもっと突っ込んで考えていいのではないだろうか。ケネディの言葉ではないが、国が、地域が何かをしてくれるというのではなく、私が、私たちに何ができるか、ということが出発点ではないだろうか。個の裏返しとしてこのことはよく認識しておくべきことであろう。
今の政治家に任せきり、おんぶにだっこといった姿勢が、今日の腐敗、だらしなさをもたらしたのではなかったか。大いに反省すべき事柄ではある。

個の存在というものをもっと大切にしながら、国のありようを考えていってもいい。
どうも我々日本人は、小さな島国のせいで育ってきたせいか、周りと同化しながら、つまり個を殺しながら協同歩調をとっていないと、落ち着かない、安心できない民族らしい。個が育たないまま、子どものままここに至っているといった方がいいのかもしれない。個々人が大いに反省すべきことだろうし、教育の世界でももっと論じられていいのではないだろうか。これも単一民族の和のあり方、生きる知恵、術だったのかもしれないが、どこか小さなメダカの群れにも似て、淋しく悲しい。
やはり基本は個である。このことは大切にしたい。でないと、本当に人を信頼、尊敬することなどできないのではないか。  合掌。

                                    平成14年8月5日記

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老いた母への想い

今、私の母は、先月の20日から市内の総合病院に入院している。
3週間ほど前の11月1日には、病床で92才の誕生日を迎えたばかりである。この母には70過ぎの長男と、私より10才年上の次男、そして四男の私と年下の二女、3男1女の4人が健在で、三男と長女はずっと昔、半世紀以上前、幼児の時に亡くなったらしい。私が生まれる前のことであり、写真も無いことから、私には全く知りようもない。次男と私との年の差の10才はそんなことから納得してもいる。
若い頃の母はもうほんとに元気一杯で、寝込んだという記憶などほとんど無い。ほんとに元気で働き者だった。90近くまでほとんど病院通いなどしたことはなかったのではないか。2年ほど前に階段から滑り落ちて足を骨折して入院したことはあるが。結局その時の入院が元で、足腰を弱らせ体力をおとしめたことが今回入院の遠因になっているようにも思える。が、ともかく数年前までは、実家の近く、といっても藁科川の川向こうの茶畑や畑などに出向いて草取りやら肥料やりや種まきと枯れ草を背負って茶畑の養生にしたりと、本当に身を粉にして働いてきた。
体を動かすことが本来好きで、じっとしているのがいやな性分だったのだろう。それだからこそ、点滴だけの今の病床でもじっと耐えていられるのかもしれない。そんな母をこの兄弟とその連れ添いが毎日日替わりで午後の数時間看病に費やしている。
2年程前、このおふくろが90才になる年に遅ればせながら、米寿の祝いをある宴席で行った。子や孫、曾孫など25人程の身内に囲まれて、背中を丸めるようにしながら青いワンピースを身にまとい、上座の中央にちょこんと座っていたのはかわいくもあり、印象的であった。当日の進行役を務めた私は、途中感極まり、不覚にも涙が止まらず言葉が出なくなったのは、恥ずかしい限りであった。実はそのちょっと前、母から昔あった悲しい話を聞いていたのである。それは、私の姉にあたる幼女が小さい頃市内の病院で肺炎か何かで亡くなり、その亡骸を背中に背負って実家まで丸一日歩いて帰ったという話であった。道中、庚申塚のある株田という場所で背中からその姉を降ろし、二人で休んだということだった。市内から実家までは距離にして28キロ、約7里の道のりである。多分朝から晩まで8時間位ずっと歩きづめだったのではないか。当時はバスも通わず、トラックなどもほとんど走っていなかった山道を、母一人物言わぬ背中の子に何を語り掛け歩いていたのだろうか。
戦前の話であるが、今考えても胸にこみ上げるものがある。そんなことがよみがえり、万感迫って先程述べた祝いの席で不覚にも涙を流す羽目になったのである。
今、ベッドで横になり、時折おかしなこともいいながら、若い頃の自分空間に浸っている時もあり、又、時には今の心境を醒めた目でどきっとする言葉で伝えてくれる時もある。

    そんな病床の母の傍らで、私はこんな句を詠んだ。
    もっとも句にもなっていない韻だけのものもあるが。
                                ( 平成14年10月21日 )

           
  • ○ 秋空に    母の過ぎし日   重ね見る
  • _        
  • ○ 病床の    まどろむ母に   灯り一つ
  •        
  • ○ 老いて母   しわぶき二つ   秋の夕
  •        
  • ○ 童女のよう  はにかむ母は  米寿越し
  •        
  • ○ 遠慮がち   母の気遣い    月に聞く
  •        
  • ○ 紅を差す   真似する母に   秋の色
 

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これから建築をお考えの方に− 設計・監理者をどのように決めるべきか −

○ これまで30年余り建築の設計・監理に携わってきた経験と、6年程前から静岡地裁・簡裁で民事調停委員を務めさせて頂いてきておりますので、そこから得た多少の体験と教訓をもとに、これから建築をお考えの方に、ささやかでも私なりの感じたことを綴ってみたいと思います。
なにがしか、お役に立てれば幸いです。

 ○ ある調査によりますと、住宅の手抜き工事のワースト5は、下記のようなことであるということです。
    すなわち、
     1.基礎コンクリート( コンクリートの調合不足−強度不足 )
     2.接続金物の不足 ( 木材仕口での接続金物類の不足 )
     3.断熱材の不足
     4.材料のごまかし
     5.防水処理
    といったことがが数えられ、次いで配管、内装、外壁、電気の配線といった工事に多く見られるということなんです。

 ○ 皆さんはこれらをどのように思われますか。いや、俺は毎日現場を視るから手抜きなどはさせんよ、と仰有いますか。確かにそれは、スピード違反を取り締まる街角に立つお巡りさんのように、手抜き工事を少なくさせる心理的な側面はあるかもしれません。

 ○ でも建築用語を理解するのもなかなか大変でしょう。まして図面を見ながら現場を照合するというのも、これでなかなか大変なんです。或いは許容できる誤差の範囲は一体どこまでかとなりますと、これも又、なかなかに骨が折れます。現場にはご存じのようにいろんな職人さんが出入りしてますし、それぞれに特色がありますから、その施工状態の良否を見定めるということも難しいものです。

 ○ そこで、スーパーマンとまではいきませんが、建築の専門家が建築主の皆さんの代弁者として、工事監理をさせて頂く。そこにプロの力が発揮されるわけですから、建築主の皆さんが大いに安心できる、又期待もできるやり方ではないでしょうか。どうぞ、食わず嫌いにならないで、是非、設計監理者の活用を図ってみて下さい。きっと大きなお力になれると思いますよ。
    それには、やはり設計事務所に相談されるのが一番の近道ではないでしょうか。

 ○ 実は、調停事件などで感じますことは、そうした設計監理者がいないために生じる工事のトラブルというのも意外と多いんです。
    だれも顔には描いてありませんからね、これしかできないとは。

 ○ もっとも設計監理者がいても、その裏付けとなる技術不足やちょっとした説明不足、或いは独りよがりといったことで事件になっていることもままありますので全てがベストと云えないのがやや残念なのですが。

 ○ ですから、設計監理者なら誰でもいいとは云えない訳で、貴方があなたの感性にあった設計監理者を選択する必要があり、そのためにもよく話し合い、その設計者の担当した作品をご覧になりながら、貴方なりの主張と条件をきちっと伝えて、設計者から提出された図面や模型などが貴方の意向に合致したものであれば、或いはあなたの思い及ばなかったような新しい提案があなたにとって素晴らしいものであれば、採用されていいでしょうし、どうもイマイチだなと思えば、もっと別な対案をどしどし要求していいと思います。そのための報酬をお支払いされるのですから。

 ○ 或いは又、この設計者では合わないなとお考えなら、新たな設計者を選択されて相談されてもいいのではないでしょうか。

 ○ だって、数百万円のマイカーをお選びする際には、あんなにも一杯いろんなメーカーのカタログやら書籍を取り寄せて検討されるのに数千万円、否もっと高額な建築であるのに、どうして簡単に人任せになってしまうんでしょうか、不思議です。人間は自分の知らないことや、ある線を越えてしまうと自己判断が出来なくなってしまうものなのでしょうか。
   恐ろしいことです。
 
 ○ 確かに車などと違って、建築は最初に完成品を見て決めるということは不可能ですし、出来ませんね。その土地のもっている性質や条件、法規制などによって、高さや広さ、規模など様々に異なって参ります。又、設計者によっても考え方や好みによって、形や機能、出来映えといったものが大きく左右される面は否定できませんし、本当に難しいものです。
    でも、これからの一生を託するご自身のお住まいや建築であるはずなのに、どうもその決め方は少し人が好すぎるように思えるのですが、如何でしょうか。人任せにしないで、もっと真剣に、一緒に創っていくんだと、いうお気持ちでお考えになったらと想うのですが。

 ○ 建築は難しい、どこへ相談に行ったらいいのか分からない、つい親戚の知り合いに頼んでしまおうかとか、面倒だから近くの工務店か、大工さんに頼んでしまおう、といった方も多いのではないでしょうか。
   その相手の方の技量も感性も分からぬままに。そうした決め方で、満足のいくお住まいが出来るとは思えないのですが。

 ○ お決めになる前に、やり方や進め方など、一度ご相談してみて下さい。
    又、施工者の決め方などでご不明でしたらいつでもご相談下さい。

 ○ 或いは、既に建ってしまったけど、その後雨漏りや床の傾きなど欠陥( 瑕疵 )が多くて困っているんだ、どうしたらいいのか、といったお悩みの方も気楽にご相談下さい。少しはあなたにとって不安が解消出来るかもしれませんし、満足のいくご返事が出来るかもしれません。
    こうしたご相談でしたら、お気軽にどうぞ。無料で応じさせて頂きます。

 ☆ 私どものこのホームページにあります小作品集もぜひご笑覧下さい。
   ご批判など頂戴できれば、なおのこと幸いです。

                           静岡市安倍町31番地
                            (株)アイ設計事務所
                                      所長 森藤 卓郎
                               Tel 054−272−1427
                               Fax 054−251−5886

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生 と 死

今年、私も還暦を迎える。
 遙か遠い、遠いずっと先のことと、他人事のようにして何も考えなどしなかったが、考えてみれば、息子や娘ももう30を過ぎたのだからそうかとも思う。
 月日は誰にも平等に齢を重ねさせる。しかし、正直、通り過ぎた道を想うとき、なんだこんなにも短いものだったのかとも思う。ともかく、この地球の地べたの上で、これまでたいした病気もせず無事生きてこれたのは、この平和な時代と両親に感謝しなくてはなるまい。
 60年を時間に換算すれば50万時間余り、人生80年生きて70万時間、そのおよそ四分の三は生きてきたことになるわけで、残された命はそれほど多くはない。だからこそ、これからが貴重とも云える。

 10年程前、齢50の年を聞く前に亡くなった友がいる。彼とは高校生活3年間同じ下宿先で寝食を共にし、私の初恋の彼女にラブレターを出すよう、内気な私にハッパを掛け自ら深夜まで文面を一緒になって考えてくれた間柄でもあった。
 彼は日大三島高校から日大理工学部建築学科に入学卒業し、その後イタリアの大学に留学卒業した後帰国して、丹下建三・都市・建築設計研究所に入社した。出来の悪い私はと言えば、高3の担任からは、( 補欠で入ることも出来るがお金がかかるという気遣いから )お前は浪人した方がいいよ、と云われて関西の予備校の願書など集めていたが、未だ日大の短大建築学科の試験が3月にあり、3年次に編入できる道もあると聴かされて受験入学、その後編入試験をどうやらパスして理工学部の3年次に編入、彼とはそこで又同クラスになったといういきさつがある。
 彼は建築ばかりでなく、英語、仏語、イタリア語といった語学にも堪能だったことから、主に西欧の責任者としてパリに滞在し、常務取締役として丹下先生の右腕となって縦横に活躍されていた。
 その彼が、ガンを再発して逝ってしまったのだ。葬式の前夜、私の出張中留守宅に彼のお兄さんから電話のあったことを翌日聴きひょっとしたらお母さんが亡くなられたのかもしれないと思い、彼の実家に電話を入れてみたが何度掛けても繋がらず、丹下事務所に聴いたら分かるだろうと電話口に出た方に彼のことを伺ったら、本日午後、静岡の方で彼のお葬式だという。突然のことで頭の中は真っ白になり、急ぎ高校時代の友人たちに連絡して、その内の何人かと慌ただしく葬儀に参列した。テニスもやり、ギターやウクレレなども弾き絵も旨く、健康的で万能だった彼。今となって考えてみると、あの時お兄さんは弔辞をと私に電話を入れてくれたのかもしれない。長いつきあいだったのに、一言も語れず、誠に申し訳ない参列の仕方であった。今でもこのことを思うと申し訳無さに頭が下がる。

 14,5年前、私が建築士事務所協会の中部支部長だった際、彼に静岡での講演をお願いしたことがある。彼が担当した作品を中心に、百枚以上のスライドを淀みなく丁寧な解説で説明してくれ、静岡出身にこうした男がいたのかと会場から感嘆の声が漏れたのも今は懐かしい。又、このことがきっかけで多忙な彼に無理をお願いし、当時新宿に建設中だった都庁の見学に仲間20人余りと大挙押し掛け、都庁の作業用エレベーターで上から下まで隈無く案内してくれたのも、彼だった。嫌な顔一つ見せず、終始和やかに接してくれたのも懐かしい。その彼は原口 侑(すすむ)君という。改めてご冥福を祈りたい。
 彼の追悼展をやりたかったが、諸般の事情でそれも適わず、残念である。

 昨年は92歳のおふくろを亡くし、若い頃東京の設計事務所で一緒だった一つ年下の後輩を数年前に、昨年は同じく2歳下の後輩と、同郷の遊び仲間だった友を相前後して亡くした。皆働き盛りの50代半ばで人生これからという男たちばかりである。口惜しいの一語に尽きる。昨秋、その2歳下の後輩、加藤隆史君のお別れ会を、彼のご家族を交えて25人程で行った。あいにくの雨模様ではあったが、雨男にふさわしく天から降りてきて、静かに見守ってくれていたのかもしれない。
 今、私も大きな岐路に立っている感が強い。
 停滞している建築業界に未来はあるのか、若者が夢を持てる業界と云うにはほど遠い感のする今、どう生きるべきか、迷い、彷徨っている。しかし、先に逝ったこうした友人たちの分まで生きなくてはと必死に思う。

 たった一度の人生、燃えてひたむきに生きたい、との思いに駆られる昨今である。

( 平成16年3月31日 還暦を前に )

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『 ふるさと 大川の方言 』 発行を顧みて

 先頃、生まれ故郷の、「ふるさと 大川の方言」を編み、発行した。
 一昨年から足かけ3年に渡る労作?である。
 実は、旧安倍郡大川村をふる里にもつ人たちの集まり《 大川クラブ 》が、今年創立80周年を迎えることから、その周年事業の一環として企画立案、作成したもので、このクラブの会長を数年前より引き受けて以来、何か地元にとって実のあるものをと願っていたことでもあり、こうして形になって日の目を見ることが出来、嬉しい限りである。親孝行、否、ささやかながらもふる里孝行できたかなと想うこの頃である。

 一昨年春、周年事業のための実行委員会を立ち上げて事業内容を検討し、有志を募りながら多くの協賛を仰ぎ、沢山の方々の協力を得て漸くここに出来上がったのである。最初は果たしてどうなるかしらん、恐らく実行委員会のメンバーも私以上に不安だったでしょうし、そうした気持がずっとあったのではないか、中には最後までそうした気持でおられた方もいたようであるし、私にとっては長い間の懸案事項であっただけにともかく自ら描いた路線に沿って一心不乱に走ってきたといった感が強い。それだけにこうして終わってみると、感慨ひとしおなのである。
 ここまで来るには本当に沢山の方々のお力を頂いたお陰であり、お世話になった方々には唯々深く感謝申し上げるしかない。

 これまで十数回の会合を開きながら、実行委員の皆さんの意思を確認しつつ、協賛金のお願いやら事業内容などを検討し進めてきた。
 事業の内容も当初は、この記念誌と方言をあしらった手拭いの製作だけであったが、どうもこれだけでは物足りないと知人にも相談し、結果元NHKアナウンサーで地元静岡出身の「山川静夫さん」に記念講演をやってもらおうと考えご本人にお願いし、幸い山川さんからも快諾を得ることが出来、ふる里大川中体育館で記念講演会をやって頂いた。
 あの山深い地に良く来て頂いたと山川さんにも深く感謝したい。残念ながら、当日の来場者は130人程と私どもが予想していた200人には手が届かず、山川さんには申し訳なかったとの思いで一杯である。
 でも、しっかり聞いて頂いた方々ばかりであり、きっといい想い出ができたのではないだろうか。

 こうした盛り沢山の企画になったために、協賛金のノルマは当初百万円だったものが百五十万円に跳ね上がった。これも、実行委員会の皆さんの必死の奮闘で何とかクリアすることが出来、考えていた事業は滞りなく無事終了した。恩師の先生方を初め、百名近い方々が集まってくれた懇親会も近年にない大盛況で、主催者の一人として大いに嬉しい悲鳴を上げさせて頂いた。
 又、記念誌の発行に当たっては、言語学者の元静岡大学教授の山口幸洋先生の有り難い檄文も頂戴して、この方言集の品格を高めても頂いた。
 地元紙の静岡新聞に紹介されたこともあって、近在にお住まいの方々からもお電話を頂戴し、記念誌を送って欲しいといった嬉しい依頼も多数舞い込んで、又新しいお付き合いが始まりそうでもある。
 静岡市内にある近くの図書館で、この『 ふるさと 大川の方言 』に出逢いましたら、ぜひてにとってご覧下さい。何かなつかしい香りが漂ってくるかも知れません。

 旧静岡市内の公立の小中学校にもこの方言集を贈呈させて頂いたし、同じく市立図書館7舘にも置いて頂くことになっており、何とか、大川方言の良さをもっと知って欲しいと思うばかりですが、やはり、方言は、地元の人に、生きた言葉で、聞いて頂くのが一番である。
 ともかく、宴は終わり、記念誌は残りました。暫くは大川クラブも一休みして、又何か新しいことでも考えようと思う。出来れば、大川地区に伝わる民話や昔話などを、大川におられる古老に大川方言で喋ってもらい、CD化できればいいな、というのが目下の目標であるが、それには余り時間がないというのも実感である。

                   平成17年5月吉日

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大川明君へ / 俺だけの弔辞

 突然に届いたあなたの訃報、まさかこんなに早く逝かれるとは。 受け取った誰しもが感じた驚きだったでしょう。
 平均年齢が80にも手が届こうかという時代に、61才とは余りに早過ぎ、本当に口惜しく、無念の一語に尽きます。

 いつも丹念に彫られた年賀状や暑中見舞いの版画、そこには、あなたの自然を慈しむみずみずしい感性が感じられて、私にとってはいつも心の慰めであり、励ましでありました。
 しかし、それももう適わぬことになってしまいました。

 貴方とは同じ静岡県出身で同級生、昭和42年に日大理工学部建築科を卒業し、そして理工学部長だった加藤渉教授の主宰するカトー設計事務所に一緒に入社し、あなたは意匠設計部に私は構造設計部に籍をおきながら、都内や関東近県の建物の設計に頑張って取り組んできましたね。
 あなたが担当された入間農協や、福生の体育館など拝見すると、骨太でダイナミックな設計があなたのモチーフだったように思います。

 その後あなたはアサヒ設計に移られた後、独立して設計事務所を設立され、その後縁あって富士電機一級建築士事務所に乞われて入社、その後大いに頑張られてその事務所の社長にまでなられ、多くの所員の皆さんの先頭に立って、感性豊かに数多くの建築に携わり、力を注いで来られました。
 又面倒見の良いあなたは、いろんな方々と共に仕事をされ、大いに徳を施されて来られました。

 お互い酒好きで、若い頃から仲間と一緒に談論風発それこそひたむきにいろんな話をしてくれました。ここ数年は、私のつまらぬ愚痴にも最後までつきあってくれ迷惑を掛けました。それも、40年来のつき合いだったから許してくれたのでしょうか。

  『旧友が 旅立つ宵を 一人酒』

 これは、あなたの訃報に接し無念やるかたないあなたへの気持を知人に語った際その方が悼んで私に詠んでくれたものですが、その晩はしみじみ酔えぬ酒をいつまでも飲んでおりました。

 これまで本当に有り難う。

 なに、人生80年とは云うけれど、自然界や宇宙の時間から考えればほんの束の間のことでありそう大した先でもない内に、私も程なくそちらに参りますからあなたの隣に席を空けもう少しだけ待っていて下さい。
 その後のことなどは、その折りにでも又一杯やりながらお話させて頂くとして、今日はこの辺で失礼させてもらいます。

 どうぞ、安らかにお休み下さい。                        合掌。

 平成18年8月末日
                               森藤 卓郎 拝

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町内会長、連町副会長を経験して

  一昨年の4月から本年3月までの丸二年、地元の足久保口組町内会長を務めさせてもらい、貴重な体験をさせて頂いた。
 又、昨年からは請われて足久保学区連合町内会の副会長も務めさせて頂いているが、これは引き続きもう一年担わせてもらうことになっている。

 そんなことから、当地区全体 ( 総戸数1,150戸弱、約3,500人居住 ) にも視野が広がってきたように思う。
 ここでは、こうした経験から感じたことなどをあれこれ書き綴ってみたい。

 当口組町内は、現在210戸程の戸数があって五つの地区に分かれ、そこにはまとめ役の区長がいて、ほぼ月一回の区長会を開催して町内の問題解決に努め、連絡事項などを伝達している。( 連合町内会でもほぼ毎月一回理事会が開催されて、活発な意見交換が行われている。 )

 又、連町及び町内会は、行政の補完団体としての役割も併せ持ち、静岡市発行の月二回の広報紙の配布や小・中学校、福祉団体などの案内、チラシなどを回覧として配布し、各種行事への支援、参加協力を仰いだりしている。

 しかし、何と云っても主たる責務は、各地区からの要望を受けて行政機関に陳情を行うということが最も重要な務めと云えよう。
 特に当地は中山間地だけにその陳情内容も、河川の護岸整備や道路の拡幅整備、或いは橋の架け替え、崖地、急傾斜地への安全対策、時には水害被害時の応急対策や環境整備など、盛り沢山である。
 これらを県や市当局に伺って陳情し、早期実現を要望していくのが大きな役割だが、昨年度の陳情は当局のご理解もあって具体的になりつつある。

 処で、今回の私は、これらに加えそれまで当町内会には無かった、地元の広報紙 『 茶の香里 』 を編集発行し、少しでも地元の方々に役に立つ情報や意識の交流をと年4回の季刊紙として、計8回の発行を済ませた。
 当初は、発行に反対意見もあったりして予算化することも難しい局面もあったが、各区長の理解を得て発行後は日が経つにつれ理解も深まり、地元の方々がこの広報紙を心待ちにしてくれるように感じられ、今ではやって良かったと、少々肩の荷が下りた心境である。

 寄稿には、地元を良く知る方々から、地域に残る伝説や地名の由来、河川氾濫の当時の悲惨な状況を写真などで紹介してもらったり、或いは、今では地元の三大行事となっている「夏祭り」や「敬老会」、「運動会」など、スナップ写真をふんだんに取り入れて紹介させて頂いた。そんなことで、結構面白い、地元を知るための身近な広報紙になってくれたのではないだろうか。

 新しいモノをやるということはいつの世も抵抗はツキモノだろうし、それを乗り越えるエネルギーも又必要である。しかし、恐れずやってみればそれなりの効果は生まれるものではないだろうか。
 これからも、他人様が喜んでもらえるようなことを、背伸びせず、自分に出来る範囲で、精一杯努めていきたいと思う。
 しかしまあ、本業第一、建築設計業務にベストを尽くして頑張るしかない。

平成19年4月8日の誕生日に寄せて

              森藤 卓郎 ( もりとう たくろう )

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静岡新聞・読者の声≪広場≫掲載記事

 ここにあるのは、静岡新聞・読者の声 《 広場 》 欄に掲載されたもので、これまでに十回程掲載戴いているが、その中から最近掲載されたものを二、三紹介させて頂く。なにがしかの参考になれれば幸いである。



『 安全な建物へ 心して設計を 』

 あのバブル時代の甘いツケがいまだに尾を引いていたと見るべきなのか、 耐震偽造というあってはならないこと、やってはいけないことが行われ、その当事者同士は責任転嫁、威嚇、慟哭、挙げ句には雲隠れである。全く無責任極まりない。

 そこには顧客への思いやり、気遣いなどひとかけらもなく、安く完売できればそれでいいといった姿勢が結果的に自分たちに返ってきただけのことである。 
 人の生命財産を守るのが建築であり、その規模は大きくなればなるほど周辺に与える影響もまた比例して過大となる。
 日本のように地震列島といっていい島国には耐震を考慮せずに建築することなどあり得ない。こんなごまかしの上に建った楼閣は、多大な犠牲者の出る前に一刻も早く解体撤去されるべきは当然であるが、それにしても年の瀬を迎え、居住者の気持ちを思うとき、何とも切なく辛い。

 同じモノを創る立場にいる人間として考えれば、こんなことは二度と許されてはならない。世の多くの建築士は良心に従い、依頼主や居住者のことを常に心におきながら安全で快適な建築を創ろうと努めているのが現実である。が、しかし、現に過ちはあったのであり、建築に携わる業界の人間は、それぞれの立場で、自戒自責の念をもってより安全に、より快適な環境創りに研鑽し、十分な説明責任を果たしながら、理解を深めていくことしか信頼回復の道はないように思う。心して設計していきたい。

( 静岡新聞/平成17年12月9日朝刊掲載 )



『 安倍川整備で 潤いある街に 』

 静岡市内を西寄りに分断しながら南北に流れる安倍川は台風などの大雨時には濁流となって荒れ狂う暴れ川と化すが、普段はそんな気配などつゆ程も見せず寡黙で、砂利ばかりの厚い賽の河原といった景色である。

 この安倍川を、昔のように、今一度清い水の流れる風情ある川に取り戻すことは出来ないものだろうか。

 私には中流域から河口までぶ厚く溜まった砂利層がこの風情を邪魔しているのではと思われ、この現状の溜まりすぎた砂利層を1.5〜2m程採取すれば伏流水である清流がかなり幅広く取り戻せるのではないかと思えるのである。採取した砂利は骨材等の建設資材にも大いに活用できるわけで、税収も増えようし一石三鳥にも思われるのであるがどうだろうか。又採取に当たっては、例えば5年間採取したら次の10年間は一切採取禁止とかにすれば過剰な砂利採取は防止出来よう。

 又、安倍川両岸の土手堤に桜やツツジなどを植栽し、遊歩道やサイクリングロードなどの整備も進めながら市内回遊ミニバスなどを走行させれば、他の政令市には見られない潤いある 『 日本一美しい静岡の街 』 の創出に相乗効果も見せようし、新幹線の車窓からも静岡らしい温かさが感じられて、更なる誘客に一役買うことが出来るのではないだろうか。

       ( 静岡新聞/平成19年1月19日朝刊掲載 )



『 被災地目にし 急ぎ耐震診断を 』

 能登半島地震 − 震度6強という。
 今や北から南、地震列島どこで起こっても不思議ではない。ましてや東海地方は起こる前から名前が付けられる程だから、如何に恐れられているかが分かろうというものである。その巨大性についてこれほど起こる前から騒がれてきた地震も又珍しい。それもこれも蓄積された地震エネルギーが深く大きいからに相違ない。

 今回も古い住宅が、不安定な造りの木造住宅が大きな被害に遭っているようである。どうだろう、備えあれば憂いなし。被害を最小限に食い止めるために先ずは我が家の耐震無料診断を地元の市町或いは建築士会等に問い合わせて進められたらどうだろうか。
 ある日突然、慣れ親しんだ我が家が凶器とならないためにも、常日頃身近でやっておくべき大事なこととして耐震改修を真剣に考えてほしい。

 特に昭和56年以前に建てられた木造住宅の耐震診断で、評点0.7以下といった数値で倒壊の危険性の高い住まいについては早めに耐震補強を行って、あなたとあなたの大切な家族の命を守ってほしい。今なら間に合う。

 発生してからああ、あのときにと悔いても、それはもう後の祭りなのだ。

( 静岡新聞 / 平成19年3月31日朝刊掲載 )

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裁判所の調停委員・専門委員となって

 現在、静岡県下には、約30名程の建築士が裁判所の民事・家事調停委員を務めております。私もその一人として、静岡地裁・簡裁の民事調停委員の辞令を受け、今春早いもので丸11年が経ちます。
調停委員とは別に、5年程前に司法委員を、3年前には専門委員の辞令を拝命しました。
 「調停委員」、「専門委員」 というのは最高裁判所の任命ですが、「司法委員」 というのは静岡地方裁判所の任命によるものです。
 専門委員というのは、4年ほど前の民事訴訟法の一部改正により、『 専門委員制度 』 が新設されてスタートしたばかりですが、これまでを振り返りながら、ささやかな経験ではありますが私なりに感じたことなどを少しお話してみたいと思います。
 『 裁判員制度 』 も平成21年5月までには始まることが決まっております。
 ささやかな体験ですが、これまでのことなどここにお話させて戴くことで、幾らかでも参考になれたとしたら嬉しい限りです。

 そもそも私が調停委員を務めさせて戴くきっかけになったのは、11年余り前の晩秋でしたか、当建築士会の静岡支部長から、「 裁判所から調停委員を推薦してくれと云われており、何とかお願い出来ないだろうか 」 と云うお話が発端でした。余り深く考えもせずに私でよかったらいいですよ、と気軽にお答えした数日後には分厚い書類が送られてきて、経歴や家族の状況など一切を記入して裁判所に送付した後、翌年の四月には静岡裁判所の所長室で辞令を恭しく頂戴したという記憶があります。

 調停委員は二年ごとの更新で、何か失態があったとか、自ら辞退届を出さない限り、一般的には更新されるのが普通です。
 定年は70歳となっており、身分は調停委員としてその任についているときだけ非常勤の国家公務員(裁判所の職員)というように承っております。
 これまでを振り返ってみますと多い時には月8〜10回、重なるときには週3,4回と言うかなりハードな調停委員会の開催もありました。最近は落ち着いてきて?月3,4回程度といった処でしょうか。

 担当する内容は、私が建築士という立場から、施主と元請けとのトラブルや元請けと下請けとの問題、或いは施主と設計監理者との関係、いずれもその多くは瑕疵に絡んだ問題や残代金請求といった事件が大半ですが、時には交通事故を巡っての事件や遺産相続に関すること、家主と店子、或いは地主と借地人との関係した事件などがあり、その都度その解決に向けて微力を傾注して参りました。が、全ての事件が円満に解決出来るという訳ではなく、出来なければ調停不調と言うことで本裁判に移行するか、そのままになってしまうこともあり、それは当事者次第ということになります。

 これまで、担当した事件で最も長かった事件は、前任者から引き継いだ期間も入れると四年余り掛かった事件というのがありましたが、これは調停事件の中でもかなり長期の事件と云えましょう。しかし、この事件が双方の互譲の精神で無事解決を見たときには、ささやかでもそれなりに力になれたのかなともう一人の弁護士の調停委員の先生とお互いほっとしたことを覚えています。
 どの事件でも、どこかに解決策はあるはずだと双方の主張を聴きながら、模索しつつねばるのが私の信条?でもありますので、比較的調停成立の確率はいい方ではないかと勝手に自負しておるところです。
 このように、調停というのは申立人と相手方双方の互譲の精神で臨んで頂かない限り解決は難しいものですから、そこに調停委員としての働きがいがあるとも云える訳ですが、時には押したり引いたり、感情面もコントロールしながら、双方の意見や本音を聞き出して、紛争解決の糸口を見つけようと努力します。
 静岡簡裁の場合、大体は調停委員二名で当事者双方の意見を聞きながら対応するのが普通です。私の場合、これまでその多くは弁護士の先生と一緒に対応させて頂くことが多かったように思います。 調停事件の内容は、当然のことながら守秘義務がありますので、調停委員として部外者に事件のことをお話することは一切控えております。

 裁判員制度が再来年始まりますが、裁判員となられる一般市民の方も、その担当した刑事事件の守秘義務は当然のことながら生じてくるでしょうから、少々辛い面もあるかもしれません。
 でも、これまでは裁判官だけの判決でしたが、これからは一般市民の見解、判断がそれに加味されるという画期的な出来事、判決になる訳ですから、裁判員になられた方の論議を深めての参加に大いに期待したいと思いますし、将来は地方裁判所のみならず更に一歩進めて上級裁判所にまで広まればとの期待もあります。

 さて、話は戻りますが、建築士の調停委員として感じたことを端的に申し上げれば、設計者或いは施行者として誠実に対応してほしいということでしょうか。それと、それぞれの立場で説明責任を充分果たしていないことも間々見受けられ、そのことが施主の不信や誤解の元になっていることも多いのです。
 又、請負契約を締結しないまま着工し、そのことが後で請負代金の支払いを巡って思わぬトラブルとなっていることもあります。或いは工事途中で瑕疵問題が発生して工事はストップし、それまでの出来高と工事残代金の精算、瑕疵工事の有無とその確認などといった事件は一筋縄ではいかない面もあり複雑です。そんな時には双方に納得してもらうために、鑑定書に準じた調停委員の見解などを作成しながら判断の材料にしてもらうこともあり、なかなか骨の折れる作業となります。

 ちょっと老婆心ながら申し上げると、工事写真や打合せ記録などこまめに取りながら、出来れば施主の承認印などもらっておくと、こうした事件に臨んだ際の第三者の判断を仰いだりする場合、有効だろうと思います。
 言った言わないの判断は、写真や記録の無い場合、第三者としては判断のしようが無いからです。それと手抜き工事などは論外ですが、工事内容などは施主に懇切に説明し納得承認を得て工事を進めてほしいものです。勝手にやってから後で承認を得るというのはなかなか至難の業という感も強く、却ってトラブルの一因になってしまうケースも多く見られます。
 設計者も同様に、設計時点で説明責任をきちんと果たしておいた方がいいと思います。以上は、いずれも当然のことと思えることばかりで大したことではないのですが、裁判所での事件を見る限りそうした問題が多いのです。

 面倒がらずに、施主の立場に立って親身に考えてあげること、それこそがトラブルを起こさない決め手なのかも知れません。

 施主の立場で申し上げれば、設計者や施工者を数ある中から選択して決めるということはなかなか難しいことだろうと思います。しかし、縁あって一旦お決めになったのであればその相手を信頼して、分からないことは納得できるまでよくお聴きになり、しっかり理解しておくということは大切なことだと思います。それが出来なければ、今はその時にあらずとお止めになることも肝要かと思います。

 設計者に対して遠慮されてしまう方が多いように見受けますが、遠慮などすることなく、自分は建築には素人なのだから聴くのは当然だ、お金を払うのは俺なんだとお考えになられて、問題点や不明な点など、自分の考えをぶつけながら話し合いを重ねていく、そうした中で信頼関係は深まり、ご自身の思うような建築が出来ていくのではないでしょうか。
 時間を惜しんだり、相手任せにし過ぎたり、多少の設計料を惜しんだりしていては、ご自身の思うような建築は出来ないものとお考え戴くしかないのかもしれません。それらに応えていけるのが本来の設計者である筈ですから。

 又、注文住宅を新築するというのは、車の購入や建て売り住宅などとと異なり、事前にカタログを見て比較検討出来たり、現場で間取りや外観を見て確認しながら購入出来るというものではありませんから、その設計者、施工者の技量、経験などを推し量りながら、担当された他の建物などを見学したり、作品集などを見て決めていくしか無い訳で、なかなか難しいことと思います。しかも一般的には車と違い、金額も百万単位ではなくて千万単位の買い物になる訳ですから、もっと慎重に検討してほしいと思うことしきりですが、意外とその点は簡単に決められているのが不思議なような気も致します。

 最後に、専門委員について少しお話させて戴きます。

 専門委員制度というのは、説明書を紐解きますと、次のように書かれています。すなわち、「 紛争解決に専門的な知識経験を必要とする場合に、その分野の専門的経験を十分に有する専門家(専門委員)に訴訟手続きの様々な場面に関与してもらう制度である。」 と。
 このため、医療分野や建築分野で、医師や建築士の専門委員としての説明を求められたり、事件への早期解決に向けて関与していくことが求められ、多くなってきそうです。実際、私なども近頃は調停委員としてよりも専門委員として依頼される事件が多くなってきたような感を強くしております。

 私自身の経験知識などささやかすぎて論外ではありますが、ともかく非力を承知で精一杯全力で取り組んで行くことがこの使命に応えることなんだと言い聞かせつつ、これからも許せる限り勉強させて頂こうと考えております。

                    平成19年4月吉日

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第49回建築士会全国大会/栃木大会に参加して

 以下は、昨年10月久し振りに参加した建築士全国大会見て歩記で、支部広報11月号 《 ねんりん 》 に掲載されたものからの抜粋と一部手直しを加えたものです。


       第49回建築士会全国大会/栃木大会に参加して


 全国大会に参加したのは何年振りだろう、平成12年の島根大会で恥ずかしながら全国表彰を受けた時以来6年振りか、その前の参加というと遥か遠い昔の富山大会ではなかったか。
 ただ今回の参加には、私なりに次のような事由がありました。

 1.宇都宮におられる先輩を訪ねて、久し振りの旧交を温めたい。
 2.足を延ばして、中越地震の被災地のその後の復興振りと、司馬
  遼太郎の「峠」のゆかりの地を肌で感じ取ってきたい。       
    3.来年4月、浜松市と並び日本海で唯一政令市となる、人口80万
  都市の新潟市は一体どんな街なのかこの目で見てみたい。

 宇都宮の先輩と云うのは、私が30年程前(財)沖縄国際海洋博覧会協会建設工事本部で勤務した折大変お世話になった方で、都庁から出向され帰庁後地元の栃木県庁に移られて数年前退職され、今回は地元・栃木県建築士会の同士のお一人として全国大会の準備段階から色々とご苦労され、県外の会長経験者の接待案内役などを務められた、堀正則さんです。
 ( 実は帰静後、「大谷石百選」という立派な本を贈って頂きました。これは一見に値する本で、皆さんにぜひお勧めしたい貴重な本です。)
 又、翌日は元建設省OBで沖縄海洋博でやはり上司としてご指導を仰いだ坂元茂さんも東京から駆けつけて来られ、久し振りに三人集まっての旧交を温めさせて頂きました。坂元さんは、会計検査院に出向されたり、中部地建の営繕部長を務められ、又二十年程前には、当建築士会静岡支部の筑波学園都市の視察旅行の際にも、当時そこの建設省建築研究所に出向されていたこともあって、二日間に渡り案内してくれたこともありましたので大変お世話になった方ですし、ご記憶の方も多いかと思います。

 ここでは、静岡支部の皆さんと別れてからの旅の中から印象に残ったあれこれを綴ってみたいと思います。
 少々長くなりそうですが、お許し下さい。

 一泊二日で一緒だった静岡支部の皆さんとは翌朝、世界遺産に登録された日光の社寺・東照宮を拝見した後東武日光駅前でお別れしたのですが、その後この駅前で待ち合わせの坂元さんと共に、迎えに来て頂いた堀さんの車に同乗して、地元の方しか知らないようなきれいな水の流れるのどかな一軒家で美味しい手打ち蕎麦を頂いた後、今一度ユーターンして東照宮に近接した日光田母沢御用邸記念公園を案内してもらいました。

 この建物は、閑静な静けさの中にあって、訪れる人を雅な世界に誘ってくれる優美な佇まいを見せてくれておりました。
 資料によると、この御用邸は明治32年に大正天皇(当時は皇太子)の静養のために造営されたもので、敷地は現在、39,400平方メートル(約11,900坪)を有し、建物規模は、木造一部三階建で展望室を有し、部屋の総数は106室、延面積にいたっては4,471平方メートル(約1,350坪)という雄大さですが、明治中期に建設された日光出身の実業家小林年保氏の別邸に、当時赤坂離宮などに使われていた旧紀州徳川家の江戸中屋敷部分を移築し、更に明治期と大正期に増改築をして現在の規模に至ったと云うことで、国内最大級の木造建築であり、平成15年には貴重な建築物として国の重要文化財にも指定されております。
 ここでは、江戸・明治・大正時代の建築技術や建築様式を見ることが出来、又、前庭には樹齢400年のシダレザクラと栃木県花のヤシオツツジがあり、春先にはその見事な彩りが目を楽しませてくれそうです。

 案内して頂いた堀さんは、栃木県庁建築課に勤務されていた頃この建物の大規模改修工事の責任者として携わられたということで、屋根や内外装の大規模改修工事の当時の苦労話などを聴かせて頂きました。
 その後これも地元の方にしか知られていないような素朴な公衆温泉浴場に案内してもらい、静かな山間の露天風呂でいい汗を流させてもらいました。
 その夜は宇都宮市内の居酒屋で三人大いに語り合い、大いに甘えてしまいました。その後南欧風のご自宅で囲碁など対局しながら、堀さん手作りの餃子までご馳走になり、すっかりお世話になった一夜でありました。

 翌朝、宇都宮駅まで送って頂いた堀さんには駅前で失礼させてもらい、坂元さんとは東北新幹線大宮駅でお別れし、単身上越新幹線に乗り換えて長岡へ。
 宇都宮−長岡間約320km、二時間程の小さな旅でしたが、この長岡市は新潟県内第二の都市で、真ん中を日本一の信濃川が流れる人口29万の都市。維新時の北越戊辰戦争と今時の太平洋戦争の戦火にさらされた歴史をもち二度の復興を遂げた逞しい街であり、忍従の街でもあります。

 下車した改札口には初めてお会いする五十嵐さんが出迎えに来てくれて、早速車で中越地震で被害の大きかった小千谷市と旧山古志村(現長岡市)、奇跡的に男の子が救出された崩落現場などを案内してもらいました。

 今回の旅のもう一つの見所は、司馬遼太郎の「峠」にある戊辰戦争の発端ともなった官軍の土佐藩士岩村軍監と長岡藩家老河井総督の会見談判所となった小千谷市内の「慈眼寺」を見ることでした。
 この寺も中越地震の際には山門、本堂とも再建は困難と思われる程無惨な姿を呈していたようですが、その後沢山の方々の支援と協力で今ではほぼ原状復旧され会見の間もきれいに整っておりました。

 この後旧山古志村に向かいましたが、震災直後テレビによく映っていた村役場(現長岡市山古志支所)前までしか一般車両は入れず、ここの駐車場広場から、崩壊し大規模に改修整備中の急傾斜地を眼下に見て来ましたが、一軒だけ未だに傾いたままの木造建物が谷の向こうに小さく見えていたのは印象的でありました。
 この役場から少し下がっ処(旧小学校跡地)には、「帰ろう山古志へ!中山間地型復興住宅試作棟建設中」という大きな看板が掲げられ、その内側には二階建ての木造住宅五棟が建築中で、今夏には全て竣工しそうでした。

 翌朝は一人散歩がてら、小泉前総理の例え話で皆さんよくご存知の、米百俵で名高い近代教育の先駆者・小林虎三郎の碑や河井継之助の屋敷跡、山本五十六記念館などを大急ぎで見て回り、その後は又五十嵐さんに同行してもらって一緒に新幹線で25分、距離にして63km北に位置する信濃川河口に広がる開港都市・県都新潟市に到着。

 駅前からドカベン号(漫画家水島新司氏は新潟出身)と銘打った市内周遊バスに乗車して、昭和39年の新潟地震で倒壊した昭和大橋を渡り白山公園前で下車した後、公園内の長谷川逸子さん設計の「りゅーとぴあ」を見ましたが、残念ながらこの日は月曜日の休館日ということで屋内や屋上庭園などの見歩きは出来ませんでした。余談ですが、近接して建つ新潟市立体育館は、40年程前に恩師の宮川日大教授の設計によるものでダイナミックな形体は昔のままでしたが、当時の建築雑誌で見ての感じとは若干異なり、思っていたより小振りで時代の変遷を感じた作品ではありましたが、その後の管理はよくされているようで、懐かしい気持を味わうことが出来ました。

 それから又周遊バスに揺られて信濃川河口に建つ朱鷺(トキ)メッセに向かいましたが、この建物は数年前の竣工時に付随したペデストリアンデッキが落下して大いにマスコミなどで取り上げられましたので、皆さんご記憶に新しい処ですが、浜松のアクトタワーにも似て日本海側では現在最高の高さを誇る建物だそうです。
 高層部分のホテル棟と低層部の1万人収容出来る大展示ホール(床面積7,800平方メートル)と国際交流プラザ、大小の会議室に回廊、各種のホールなどで構成されており、地上140m、31階にある展望室からの眺望はなかなかのもので、遠く東方には奥羽山脈が南北にゆったりと横たわり、身近には新潟市内の街並みが広がって近代的な建物が建ち並び、一方北方の海岸沿いに目をやれば新潟空港を離発着する飛行機が豆粒程に見えてもいる。

 又眼下に目を転じれば蕩々とした流れを見せる信濃川がゆったりとした風格で日本海へと誘い、河口付近にある幾つかの港には函館や佐渡に向かう大型フェリーや大小様々の船、船、船が目に入る。なるほど信濃川河口に発展してきた開港都市新潟市だなと納得出来る景観が一望の下に見えるのですから、なかなかの壮観です。が、惜しむらくは、全周三百六十度眺望出来るような展望室にはなっておらず、この点はこの日霧が立ち込め佐渡島が見えなかったことと併せて少し残念な気が致しました。

 今回の旅の終着駅だったJR新潟駅に再び戻り、駅ビル内で遅い昼食、ここでは南蛮エビやホッケにノッペ、栃尾の大振りな油揚げなどを地酒と一緒に食した後帰途につきましたが、この席で五十嵐さんが云われるのには雪は決して楽しいものではありませんよ、雪かきなどほんとに大変なんですと、静岡から見れば羨ましく見える雪も生活するとなると、重く、敵にも見える程大変なものなのだなとその口振りに大いに厳しさを感じたものでした。それだけに静岡というのはそうした方々から見れば日本一の富士山に抱かれ誠に恵まれた羨望の地にあり、そのことを私どもはもっとよく噛みしめる必要があるのではと感じた旅でもありました。

 日光、宇都宮そして長岡から新潟と、関東内陸部から日本海側の諸都市を三泊四日の駆け足でざっと見聞させてもらいましたが、新潟から静岡間延長514km、東京駅経由新幹線4時間車窓の旅で、私の後半一人旅は無事幕を下ろしました。

 天気にも恵まれ、見たい処も見せてもらい、久し振りの旧交も温めさせて頂いて美味しいお酒も頂き、つくづく感謝の旅だったなあと、今更ながら改めてその往復千キロ余りの旅の想いに浸っております。

 今秋の建築士会全国大会は北海道大会ということで、十勝地方帯広市を中心に開催されるようですが、宇都宮会場にも北海道建築士会の方々がPRに専念されており、新庄選手はいないかもしれませんが、広大な北海道でビール片手に北海道ならではの美味をほおばりながらその大地に、今から想いを馳せております。
(未だ未経験の土地ですし、司馬遼太郎の「菜の花の沖」高田屋嘉平衛の舞台でもあることから、ぜひ行って目の当たりに見たいものです。)

 又、大会会場では、四国高知の建築士会の方々も四国の良さを売り込んでおられましたが、この三月下旬に、高知・坂本龍馬を訪ねてもおりますので、次回はこの四国/広島四泊五日、地酒街並み飲み歩きの一人旅を綴ってみたいと思います。

 以上、勝手な想いを勝手に書き綴って参りましたが、これが昨秋の全国大会に便乗参加した私なりの見て歩記でした。

  改めて、お世話になった方々に 深い感謝を 込めつつ—。

     平成19年四月吉日
                              森藤 卓郎 拝

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ハローワーク の 名付け親 として

 当事務所の壁に、一枚の賞状が他の賞状と並んで掲げてある。
 平成2年1月8日に、当時の労働省(現厚生労働省)大臣室で時の福島譲二大臣から頂いたもので、それにはこう書かれている。

 賞状 入選 「 ハローワーク 」  森藤 卓郎 殿
 公共職業安定所の愛称募集に応募されたあなたの当初の作品を愛称として決定致しましたのでその栄誉を称えここに賞します
  平成二年一月八日 
     労働大臣 福島譲二 印

 今から17年も前のことになるが、大臣だった福島さんはその後地元の熊本に帰られ県知事にお成りになり、残念ながらそれから数年後現職のまま他界されたと記憶している。

 この日の前日、新宿近くのビジネスホテルに泊まり、翌朝地下鉄に乗車して労働省に出向き、庶務の方に応対して頂いた。受賞後は、新宿の職安に出向いてそこで初の女性職業安定所長になられた藤原さんと一緒にこの「ハローワーク」と書かれた看板を玄関脇に掲げさせて頂いた。
 これが当日のお昼のニュースで全国放映されたようで、自宅にはその日だけの有名人と云った格好で、いろんな方からお電話を頂戴し、一躍時の人といった感じで、翌朝の各紙にも紹介記事が掲載され、今考えても心弾む懐かしい思い出である。
 このハローワークも、15年余り経った今すっかり定着されたようで、これに関連した名前もあちこちで見受けられ、名付け親としては嬉しい限りである。

 当時伺ったところでは、審査員の糸井重里さんがこの名称を強力に推薦してくれ、その結果決まったといういきさつらしい。確かに、省内の方々だけの審査員であったら、果たしてこうした少し軽快すぎる名称は敬遠されていたかも知れない。それを考えれば、糸井さんには改めて感謝しなくてはなるまい。

 公共職業安定所(愛称ハローワーク)は、全国で大小600箇所以上あるそうで、知らぬ間に一気に私は600人以上の親?となってしまったようである。

   応募したきっかけと云うのは、私の一つの体験が布石としてあったかもしれない。
 それは、東京にいた当時(30数年前)、それまで勤めていた事務所を退職したことで失業保険の手続きに池袋の職安を訪ねた祭、その建物の持つイメージとそこにいる人々のうつむき加減の暗さが何とも切なく寂しくダブって見え、何とかしなくてはと思っていたことが、朝日新聞の締め切りが迫った愛称募集の記事に目が向いて、応募したものである。

 その後このことがきっかけで、タモリの「笑っていいとも」に出演させて頂いたり、地元のラジオや新聞にも何度か出演させて頂いたりもした。
 平成8年には、地元の産業支援センターの愛称「ツインメッセ静岡」の名付け親にもさせて頂いて、有り難いことだと感謝している。
 これからも自分に出来ることを精一杯挑戦していきたい。未だ63だもの。

  平成19年4月吉日

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丸亀、高松、高知から広島へ / 四泊五日一人旅

 弥生3月下旬、21日(水)〜25日(日)の五日間、四国は丸亀から坂出、そして高松から高知に向かい、その後広島に踵を換えて隣接した岩国と呉への一人旅を楽しんで来た。
 たまたまこの二年間、地元の町内会長など務めたことから、自分へのご褒美?にと考えたプランでありました。
 一度は龍馬を訪ねて高知の地に足を踏み入れ、この目で南国の情緒風情を肌で感じてきたいとの長年の想いもあり、又広島には次女家族がいることから久し振りに三人の孫たちの顔も見たいという、なあに、還暦過ぎの親父が気ままに一人旅を思いついたというだけのことなんでございます。
 で、ここにその印象記を綴り、記憶に留めておこうと云う訳ですが、その場に立って感じたあれこれを稚拙な表現にて綴っているのは愛嬌よとお感じ頂いて、でもまあ、自分の感じたことどもを、嘘偽り無い気持で綴っているなとご容赦頂きたいと思います。又失礼な点やら間違いなどありましたら、あなたの広〜いお心でご容赦下さい。

 今回、私の見たかった施設等には、次のようなものがありました。
  ・ 丸亀市猪熊弦一郎現代美術館
  ・ 香川県立東山魁夷せとうち美術館
  ・ イサムノグチ庭園美術館
  ・ 高松市中央図書館
  ・ 高知県立坂本龍馬記念館
  ・ 岩国 錦帯橋
  ・ 呉市大和ミュージアム

 さて、春分の日の21日朝、8時14分静岡発JRひかり401号に乗り一路京都へ。京都では降りることなく同じホームの9時55分発JRのぞみ61号に乗り換えて岡山に。次いで11時22分発JR特急しおかぜ9号に乗車、四国へ。 ( いや、この車両にはちょっとどきんとしたのでありますよ、と云うのは、実は何と!アンパンマンに出てくるバイキンマンやドキンちゃんといったキャラクターが所狭しと車両内外あちこちに、それこそ座席のシートや車窓までにも描かれており、乗客も若い親子連れの多い中、爺一人何とも気恥ずかしくうつむき加減ではありました。) 車中、瀬戸の内海を眼下に見下ろし、渡る瀬戸大橋も初めての体験で乗車30分ほどで四国に入り、丸亀着12時07分。ここで初めて駅改札口を通り抜け、四国の地に足を降ろしました。
 ( 静岡−岡山−丸亀 601km 所要時間、4時間足らず )

 早速駅前の丸亀市 「 猪熊弦一郎現代美術館 」 を見学。
 設計は建築家の谷口吉生氏。1991年の竣工は、今から16年前のこと。
 規模は、延面積8千平方メートルで、地下I階/地上3階建のSRC造。
 同じ棟に併設された市立図書館は、この日休館日ということで室内入ること適わず、手を翳しつつガラス越しに覗くだけという態様でありました。
 この美術館の正面は東側の駅前に向かって開かれており、この屋外ステージにも見えるプロセニアムアーチ型のファサードはコンクリート打放しでダイナミックである。それでいながら軽快に感じるのは外壁の厚みを感じさせないデザインのせいだろうか。
 左手の幅広の外部階段の中程に水平に架かるガラス張りのブリッジは、左右の空間をつなぎながらこの外部空間を引き締め、アクセントになっている。
 屋内は透明の強化ガラスの手摺りと白い壁に白い天井、床は展示室/木製フローリング張、共用階段部/主に石貼といった構成だった様に記憶しているが、エントランスホール廻りの開放的な空間は心地よい。そこに設えられた無彩色の内部階段を昇っていくと2階から3階の各展示室へスキップ状に自然と導かれる感じである。

 資料を見ると、猪熊弦一郎さんは1902年高松市に生まれ、上京するまでの幼少年期をこの丸亀市を含む近隣で過ごし、1993年5月逝去とある。
 会場には谷川俊太郎さんの絵本 「 いのくまさん 」 からピックアップした、

   「 こどもの ころから
         えが すきだった いのくまさん
           おもしろい えを いっぱい かいた 」

のシンプルな言葉がひらがなで大きく描かれて来館者をやさしく誘う。

 子ども達にも親しみのもてる鳥や猫や人の顔、顔、顔、街の姿など、いのくまさんならではの抽象的な面白世界が無限に広がり、親しみ易い雰囲気をもった色彩と形、そうした絵があちこちに展示され、訪れる者に心地よい安らぎを与えてくれているようだ。ここは又、子ども達にとってもまたとない心育の場ではないだろうか。
 「 絵には勇気がいる 」 と、生前猪熊画伯はよく言われていたということだが、見る者にこそ勇気を与えてくれているのではないだろうか。
 月刊誌の 「 小説新潮 」 の表紙絵も40年もの間、毎月欠かすことなく描かれていたということで、その頃時々購読していた私などにも懐かしい猪熊さんなのである。
 余談だが、会場係の女性の方にお聴きした処では、近在の人気美術館は三ヶ所あるそうで、一つはこの 「 猪熊弦一郎現代美術館 」、二つ目に 「 東山魁夷せとうち美術館 」、そして今ひとつは、瀬戸内海の小島・直島にある、建築家安藤忠雄氏設計の「ベネッセハウスミュージアム」とのことである。残念ながら今回、私の計画に直島は入っていない。

 この後、JR土讃線にて坂出に戻り、タクシーにて瀬戸大橋記念公園内の海岸沿いに配された美術館、香川県立 「 東山魁夷せとうち美術館 」 に向かう。 ( バスの便少なく、止むを得ずタクシー利用となる。 )
 設計は同じく建築家の谷口吉生氏で、建物の規模は2階建で、小振りの瀟洒な佇まいである。
 外観は、周辺が広がる空と海と緑と云った開放的な自然を意識してだろうか、あくまで慎ましく遠くの山並みのラインを損なわぬかのように敢えて低く抑えられていて、眺望としてのランドマークにはちょっとなりにくい。
 その表情は、面としてのモスグリーンの石貼り外壁と線状の薄い庇のヨコのラインとで構成されており、果たしてこの色彩は遠景の山並みに合わせてのモスグリーンであったのだろうか。ともかく威張ることなく重心を低く抑え、落ち着いた外観である。
 公園の一角から斜めにアプローチされた石畳を通って、L型建物正面のやはり横長の平面構成をもつ玄関ホールに導かれる。受付左手の展示室から2階の展示室にある作品をゆたっりと見てその先の階段を下りて行くと、明るい基調のラウンジが広がり、軽食喫茶が楽しめる。ここからは、海側に解放された大きなガラス窓越しに、真っ青な瀬戸内の海と真っ白な瀬戸大橋がダイナミックに一大パノラマとなって広がりを見せている。
 交通至便の立地とは云い難いが、そのロケーションは素晴らしい。
 この美術館での東山魁夷画伯の作品は、主にリトグラフによる作品が中心ということで、やや物足りなく感じたのは一人私だけだろうか。

 美術館見学後、予定には無かったが、少し離れた瀬戸大橋記念館を見る。
 ここで手にしたパンフレットには、こう書かれている。 「 人類の英知と最新の科学技術を結集して完成した世界最大級の道路・鉄道併用橋である瀬戸大橋について、架橋工事の全貌を精巧な動く模型や映像技術で分かり易く展示紹介されています。 」 と。実際、当時の架橋工事の大変さ、規模の大きさなどが誰にでも分かり易く丁寧に説明されている。
 ( 恐らくこの記念館がオープンした当初は多くの来場者で賑わったに違いない。が、あれから20年近く経ち、今来館者は数えるほどである。強者どもの夢の跡?といった寂しさは遺憾ともし難いが、これはこうした記念館の宿命かも知れないない。が、だからといってその価値が減ずるものではない。これからも未来を背負う子ども達にいつまでも語り継いでいってほしいと思う。)

 しかし、本当に本州と四国を繋ぐルートは、この児島−坂出ルート(瀬戸大橋)、神戸−鳴門ルート(明石海峡大橋)、尾道−今治ルート(しまなみ海道)といった三橋も必要だったのだろうか。遠く離れた静岡の地にいる私などが考えても、大いに疑問の残る決定だったように思えるのだが、どうだろうか。莫大な費用とそのツケなど、四国の方々に大いに聞いてみたいところではある。


 ここで、資料を基に、瀬戸大橋の概要を記しておこう。

 ・ 道路鉄道併用橋としては世界一(橋の全長延べ9,367m)
 ・ 全面開通は1988(昭和63)年4月(児島−坂出ルート/瀬戸大橋)
 ・ 工事期間は9年半
 ・ 総工費は1兆1,200億円(1万円札を積み上げれば富士山の2.5倍)
 ・ 塔の高さ(南備讃瀬戸大橋)は海面より194m(霞ヶ関ビル147m)
 ・ 海面から橋桁までの高さは65m以上(50万トンの巨大船通過可能)
 ・ 大橋を支えるケーブル間隔は35m
 ・ 鉄道橋としての高さは13m
 ・ 使用主要材料は鋼材69万トン(東京タワーの173基分)、
     コンクリートは280万立方m(霞ヶ関を升として6杯分)
 ・ メインケーブルの直径は最大1.06m
    (直径5.1mmのワイヤ3万4417本が束ねられている。)
 ・ 1本のケーブルは160kg/平方mmの強度
     (ワイヤ1本5.1mmで、乗用車3台(約3t)の吊りが可)


 この後、この日の最終バスにてJR坂出駅に向かう。この坂出駅から北側に200m余り歩いた先に、30数年前建築雑誌などに華々しく紹介された坂出人工台地の共同住宅群があり、1,2階をぐるっと徘徊する。
 1階の店舗はほとんどがシャッターが降りた状態で空き室もあり、店舗間の通路も人工台地の下ということもあって暗くて狭い感は否めない。1階部分を見る限り雑誌で見たあの頃の華やかなイメージとは程遠く、物寂しい。
 これを改めて再構築するには膨大な資金が必要であろうし、活性化するには市の人口減もあって前途は多難という感じで、単なる老朽化だけでは済まされない、一街区とは云え将来を見据えた都市計画の難しさといったものをつくづく感じた次第。 

 その後JR快速マリンライナーに乗り高松へ、14時54分着。
 新装成ったJR高松駅とこの周辺はさすがに四国一の玄関口と言った賑やかさで近代的な高層ビルが目立ち、四国の勝ち馬と言った風情である。
 駅にほど近い海岸寄りにはシンボルタワーを抱えたサンポートホールの超高層ビルが聳え、その東側にはやはり超高層と云えるホテルが東側にやや弧を描いて上空に伸び、眺望を競いあっているかのようである。

 続いて、歩いて間近な琴電築港駅近くにある高松城跡の市立玉藻公園を見学。ここは昔三大水城の一つであったということで、石垣の周囲には外堀が巡らされ、この堀には瀬戸内の海水が入り込んでいるためチヌとかボラなどの海水魚が見られるのも珍しくないようだ。これほどの海岸寄りに築城したと言うことは瀬戸内の海とをつなぐ何か特別な理由があったのだろうか。舟の出入りなどはどうだったのだろう。群雄割拠のその頃、近在他国とはどんなつきあいで味方は?敵は?昔の城跡を見ると、色々と想いは広がる。
 又敷地内には大規模な木造建築もあり、その周辺には大小様々な灯籠がひょっこり顔を覗かせていて面白い。又この縁側の脇にある蹲い(ツクバイ)は重さ11トンもあるという大きなもので、巨大な敷石とともに目を引く。
 閉館時間となり公園を出、琴電にて10分ほどの瓦町にて下車。徒歩5分のホテルにて泊。
 ( 丸亀−坂出−高松 約28km 所要時間20分 )

 翌朝、この瓦町より琴電志度行きに乗り八栗駅下車、8時50着。
 今回の旅の主要目的地であるイサムノグチ庭園美術館に向かう。
 予約した10時には未だ間があり、現地までのんびり歩くことにする。
 この付近は源平の古戦場屋島などが至近にあることから、那須与一や源義経にまつわる故事や史跡の案内が道行く先々に目に映る。

 又、牟礼地区にあるイサムノグチ庭園美術館の周辺には数多くの石材店が軒を連ね、駅から美術館までの両側には石材店がほとんどと云っていい。各店の前庭には灯籠や墓石、置物、庭石などが所狭しと並べられており、中には長さ10mはあろうかと云う巨大な石が無造作に置かれてもいる。

 さて、庭園美術館の手前にある案内待合所には予約の15分程前に到着。早速係の方に氏名を伝え見学料を支払いシールをもらった後、説明案内人の先導で20名ほどの見学仲間と一緒に比較的自由に見て回る。この日の見学者は、見たところ20代から私のような60代まで、職業も学生さんから主婦のグループなど様々で外人のご夫婦もおられたり、性別で見ればやや女性の方が多かったか。又来館者の多くは県外からのようで、その中の一人は聞けば広島から直行バスで来たという若い女性の方であった。
 ノグチイサムさんの屋外と屋内の作業場 — そこにはノグチイサムさんが生前働いていた状況そのままに作品が置かれているとの説明に、今にもその一角からご本人がひょっこり出てきそうな情景でもある — と自邸、そして自邸裏にある小高い丘の上には卵形の大きな墓石がシンボリックに遙か彼方の瀬戸内海を望む高台にやや首を傾げるようにして鎮座しており、その中空にはノグチイサムさんの遺骨がそっと抱かれるようにして静かに眠っている。

 自邸は民家を移築されたと伺ったが、1階の天井は2階床板と根太を顕わにして高さはさほど高くない。ご自身がデザインした灯りだろうか天井から吊されている。民家風の木と塗り壁の空間がやや薄暗くはあるものの、南側の前庭 − 竹林と石垣に囲まれてゆったりとした空間 − は屋内と一体的につながり、北側は植込を中心に小振りな空間が設えられ全体として落ち着いた和風の佇まいを見せている。
 南北に面した開口部は横長に大きく開かれているせいか風通しは良さそうで、ノグチさんにとっては癒しと談論風発の空間だったのではないだろうか。
 じっと眺めていると、生前世界を股に掛けて活躍されたイサムノグチさんの骨太でダイナミックな暮らしが夢想されもした。

 約1時間という短い見学ではあったが、世界に大きく羽ばたいたイサムノグチさんの世界を牟礼の地で垣間見ることが出来たのは、誠に至福の時空であった。
 なお、イサムノグチさんは1904年(明治37年)に生まれ1988年(昭和63年)に亡くなられたが、前述の猪熊弦一郎画伯とは晩年まで交流があった由である。イノクマさんが急逝されたのはその5年後のことである。

 琴電の八栗駅には徒歩にて戻り琴電瓦町行きに乗車、そこで乗り換え終点築港着。ここからJR高松駅は徒歩5分ほどの近さにある。
 帰途残念に思ったことが一つある。それは、途中屋島にある「四国村」を見学できなかったことで、ここには四国各地や神戸などから移築された三十数棟の民家や歴史的建造物が大切に保存されており、時間に追われてとは云え拝見できなかったのは誠に口惜しいことでありました。( やはり、旅は時間に少し余裕を持たせて行きたいものです。)

 JR高松駅前から市内循環バスに乗り、昭和町にある高松市中央図書館を見学。この建物の正面は、全面ガラス張りで大きく弓なりに弧を描いて、透明感をもった外観を呈している。実は、この図書館の3階には高松を故郷にもつ菊池寛の趣ある記念館が配されており、迂闊にもここに来るまで知らなかったのである。
 この案内書を見ると、「その功績と名誉を顕彰し文化の発展に寄与すべく市制100周年の記念事業の一環として平成4年に開館した。」とある。文藝春秋を創刊した菊池寛の素顔を物語る遺品や様々な作家たちとの交流を語る映像などを通して、ここには菊池寛を取り巻く世界を見ることが出来る。略年譜や原稿、「父帰る」の舞台模型や芝居の映像展示などもあって、楽しい。
 又菊池寛の大きな遺産としての芥川・直木賞、菊池寛賞を受賞された作家がずらっと写真入りで紹介展示されているのは、毎年新しい受賞者が加えられていることもあってなかなかの圧巻である。
 駅から離れている不便さはあるものの、一度は訪ねてみたい記念館ではないだろうか。唯惜しむらくは、そうした交通不便のせいかこの日私が訪ねた30分余りの間他に誰一人、来訪者の姿が見られなかったことで、受付の女性もやや手持ち無沙汰の感がありました。

 今一度バスにて高松駅前に戻り、そこからJRの各駅停車で多度津まで向かう。が、この車中で呆然としたことがある。それは途中午後4時前の未だ明るさの残る中、線路脇からせいぜい100m程の距離にあったろうか、一軒の切り妻屋根の家が真っ赤な火を揚げて燃え盛っており、消防車も未だ到着しておらず燃えるに任せての何とも凄い光景を車窓越しに見てしまったことである。その家の手前には数人の男がただじっと遠巻きに見守っているだけという無力な状況で、隣家は離れていることもあって延焼こそ免れそうであったが、家の中に人がいたのかどうかといった懸念と一緒に、遠ざかるその光景はいつまでも瞼に残る惨事であった。

 この後、多度津4時39分発のJR南風17号にて高知に向かう。
 土讃線は単線でトンネルも多く、時々途中の駅で待ち合わせしながら向こうから来る電車をやり過ごしながら進んで行く。ちょっと不思議だったのは、多度津から景勝地の大歩危・小歩危(注:歩危[ぼけ]というのは崖の意のようである)を通過するのだが、この辺りは結構な山間の中腹を走っていて小さなトンネルも数多く、合間に見える眺望に標高の高さを感じるのだが、又高知辺りに近づくと何事もない感じで低地を走行しており、この高低差は一体何だったんだろうと今でも不思議に思えるのである。車の走行であればアクセルやブレーキのそれが気になるはずなのに、あれだけの峠を越えているというのにそれが全く気にならない不思議さ、軽やかさと云えば私の臨場感を感じて頂けるだろうか。
 高知には18時32分着。夕闇迫る中、駅より徒歩5分のホテルに向かう。が、このホテルのエレベーターに乗って驚いたのは、かご内は乗客満員で皆楽しそうにはしゃいでおり、聞けばこれから屋上のビアガーデンへ行くのだという。三月下旬というのに、えっ!、ビアガーデン!何とも早いな!と改めて南国の暖かさを感じたことである。 
 ( 高松−多度津−高知 約160km、所要時間2時間30分余 )

   翌朝、高知駅前始発の市電に乗り途中はりやま橋で乗り換え上町2丁目で下車、幕末の英雄坂本龍馬の故郷、上町の高知市立「龍馬の生まれたまち記念館」を見学する。( 蛇足だが、この市電の乗り換え時にはそれまでの乗車料金は払わずに、[つまり乗客を信用してのことで]次に乗り換えた市電の車掌に通しの料金を支払うシステムとなっているのはちょっと面白かった。)
 記念館の近くには龍馬の生まれた生誕地があるが、今はビル街となっていて大通りの一角に大きな石碑が一つあるのみである。
 この記念館は木造2階建で中庭を囲んだ二つの切り妻屋根が仲良く − 龍馬と龍馬の姉、乙女のように − 並んで来訪者を迎えてくれる。

 ガラス戸を開け正面の受付を通って展示室に向かうと、最初に出迎えてくれるのは挿絵画家の村上豊氏描く少年時代の龍馬で、土佐弁で迎えてくれる。又別の展示室では龍馬のいた頃の当時の上町をジオラマで再現してくれてもおり、2階には模型と映像を使ってある日の坂本家と題した映像演出があり、自然豊かな中で、男勝りの龍馬の姉乙女と龍馬の当時の日常風景が描かれていて何やらほほえましく、この街界隈全ての人が、今なお龍馬を大切に誇りにしていることが感じられて、嬉しい気持になってしまった。

 この後、市の中心部にある高台におかれた高知城の天守閣に昇り眼下に広がる高知市街を眺望しながら往時の山内一豊を偲びつつ、次いで再度市電にてはりやま橋に戻り、今度はバスに乗り換えて桂浜に向かう。
 途中、傷ましかったのは桂浜近くの通り沿いのカーブを描いた角地に、廃業となったホテルがそのまま無惨な姿を晒していたことで、観光を目玉にする地であればなおのこと早急な撤去解体がのぞまれるだろうにと寂しい思いに駆られたりもした。
 台風などが接近すると必ずと言っていいほど放映される桂が浜、小高い地に立つ坂本龍馬の銅像、そして目前には龍馬の眺める太平洋と青空が果てしもなく広がりを見せている。
 この大海原で心を洗われた後、海岸端のふもとから続く坂道を昇り、太平洋を一望する桂浜公園の小高い丘に建てられた県立「坂本龍馬記念館」に向かう。
 ここでは、丁度記念館15周年企画として、北海道に生きた反骨の農民画家・坂本直行氏(坂本龍馬の子孫)の絵画展が開催されていたが、龍馬も生前北海道開拓を夢見ていたということである。

 パンフレットをみると、この記念館設立のいきさつは、1985年(昭和60年)坂本龍馬生誕150年の節目に当たることを記念して坂本龍馬記念館を建設しようと云う意見がまとまり、この年龍馬生誕150年記念事業委員会が結成され、全国に向けて募金活動を始めた。結果国内外から集まった募金は約8億円にも達し、県もこれに2億円を助成して総額10億円として、坂本龍馬の「柔軟な発想」、「世界に目を向けた見識」、「豊かな人間関係」、「果敢な行動力」などを次世代にバトンタッチしたいという意図で建設されたということである。
 この太平洋に向かって突き出た直方体のガラスの箱に身を任せ、眼下に広がる太平洋を望むと、龍馬のもつ気迫と勇気と明日への想像力が体感できそうである。
 建築は、昭和63年設計競技の最優秀賞(応募総数475点)、当時30才の高橋晶子氏の設計によるもので、平成3年10月に完成し翌月オープンした。

   桂浜を後に、JR高知駅に戻って遅い昼食を駅ビルの2階で摂る。この日は朝からずっと龍馬を堪能したなとちょっとした感慨を味わいながら。
 午後2時発のJR南風18号に乗車し、岡山着16時27分。ここで、JRのぞみ31号に乗り換え広島へ。広島駅17時19分着。新幹線1時間弱の車窓であった。
 駅前には娘のかおるが孫たち三人を乗せ車で迎えに来てくれており、そのまま同乗して自宅のあるマンションに向かう。久し振りの孫たちは代わる代わる話しかけてくれ、爺のちょっとばかり疲れた気持を和ませ、癒してくれる。
 その夜は、孫の男の子二人と一緒に風呂に入り、広島泊。
 ( 高知−岡山−広島 約340km 所要時間3時間20分 )

 24日(土)の翌日は、朝からあいにくの雨。そんな中、下の孫二人(亮君と翔君)を保育園に預けた後、娘のかおるが小学校1年の孫娘・未来(さき)ちゃんと一緒に、錦帯橋のある岩国まで山陽自動車道を西下しながら自分の車で、案内してくれる。
 ( 広島−岩国 約45km。 所要時間40分ほど )

 初めて錦帯橋を渡る。雨の中でもさすがに風情を感じる橋であり、名所であるだけに観光客の人出も多い。河川敷の中にある駐車場に並ぶ大型バスのナンバーを見ても、熊本や福岡、岡山など県外からの来訪者が多いようだ。 残念ながら、桜の開花には未だ早かった様である。
 ちょっと目を引いたのは錦帯橋を渡った先にある武家屋敷と、変わり種だったのは白蛇博物館に真っ白い蛇を数匹見たことで、今年何か良いことありそうとの想いに駆られた錦帯橋ではあった。

 この後広島に戻り遅い昼食、広島風お好み焼きを食して後、呉に向かい大和ミュージアムを見学。
 ここには、戦艦大和の十分の一の模型(全長26m)が1階中央のホールに展示されていて、模型とは云えそのスケールの大きさには驚かされる。又、隣の展示ホールには零式艦上戦闘機や人間魚雷「回天」、特攻隊員の遺書、砲弾などがあり、屋外に目を転じれば、実物の潜水艦、潜水調査船などを見ることが出来る。
 比較的新しい施設のせいか、見学者は若者を中心にかなりの数であった。
 隣接して大規模なショッピングセンターがあるのも影響あるやも知れない。
 このミュージアムは、正式には呉市海事歴史科学館と呼ぶようであるが、この展示のあり方で果たして真に平和の大切さが訴えられているのだろうか、やや疑問府を持ちながらの見学ではあった。
 このあと、呉市立図書館もざっと見学。
 ( 広島−呉 26km 所要時間30分ほど )
 帰途大降りの雨の中、預けていた保育園に迎えに立ち寄り、孫二人連れて帰宅。

 25日(日)の翌朝は晴れて気持ちよく、来たとき同様JR広島駅まで孫たち四人に送ってもらい、途中広島市立図書館を見るも残念ながら休館日で中には入れず。JR広島駅午前11時30分発ひかり414号に乗車。往き同様京都にて乗り換え一路静岡へ。JR静岡駅、15時05分着。
 ( 広島−京都−静岡 約714km 所要時間3時間30分余り)
 こうして無事、長いようで短かった全長約2千km弱の、私の四泊五日の一人旅は終わった。

 夜の飲食などには敢えて触れなかったが、高松では飲食街を徘徊しつつ、最初のお店のお客さんが次のお店を紹介してくれたり、その又お店のママさんが知り合いの次のお店を紹介してくれたりして、大いに楽しませて頂いた。又高知では地酒を楽しみながら、居酒屋のご主人と奥さんが話し相手になってくれ、土地の厚い人情にも触れさせて頂き、旅ならではの旅情、醍醐味を味わうことが出来たのは、嬉しい限りであった。

 広島では娘の夫が経営する飲食繁華街、流川町にある二軒のお店、「 龍馬 」 と 「 晋作 」(何やら、幕末を想わせるようなお店ではあるが、ちょっと品のある落ち着いた雰囲気のお店ですので、広島に行かれた際には、ぜひ立ち寄ってほしいものです。) でおいしいお酒と手料理を頂きながら、大変お世話になった。(広島の飲食繁華街だけに、大人たちに混じってちっちゃな孫たちを連れてと言うのは正直ちょっと場違いな、教育上?やや申し訳ない気持ではありました。)
 ともかく、お世話になったこうしたお店のご主人やママさん、多くの方々に改めて感謝しつつ、この辺で失礼させて頂こう。
 最後に、土佐弁を一つ。「わし、高知から静岡へ、いっちきちもんちきち。」     深謝。

                       ( 平成19年5月吉日 )

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